帽子を取り、頭を下げる。隣で同じ動作をしている「同僚」のドレッドヘアがばさり、と空中に翻るのを目の端に捕らえながら、レンは心の中で深々とため息をついた。
「いつもごくろうさま。また頼むわね」
人懐こい笑顔を向けてくる受付嬢に愛想笑いで答え、きびすを返す。自動ドアを潜り抜け、駐車場に泊めてあるエアカーまで戻ったところで、いきなり背中をばん、と叩かれた。
「ぅわっ」
「なに辛気臭い顔してるのさ。そんなに疲れた?」
陽気に笑う彼女は、つい数日前に知り合ったばかりの同僚だ。アルバイト仲間といった方が正しいだろうか。この仕事に就いてまだ一月だというが、オレンジ色の作業着姿が実に板についている。
「いえ、そういうわけじゃ……」
同じ作業着を着ていても、レンの場合はどうにも塗装工(見習い)にしか見えない。そんなレンの顔を覗き込んで、彼女はうんうん、と頷いてみせた。
「大変だねえ、勤労学生っていうのも」
「いやあ」
曖昧に笑ってみせるレン。そう、表向きの理由は学費を稼ぐためのアルバイトなのだ。なにしろ運送業は時給がいい。しかもこの『バンブー急便』は今時珍しい日給制で、日銭を稼ぐにはもってこいだった。
「それにしてもさ、あんたの頭なら奨学金もらえたんじゃないのかい? アタシみたいな馬鹿はどう頑張っても無理だけどさあ」
アハハ、と笑う彼女は、竹之内学園高等部に通う現役バリバリの女子高生である。同級生がファーストフード店で愛想笑いを振りまく中、彼女がなぜこんな肉体労働に従事しているのかといえば、
「小型宇宙船のライセンス取るのって物凄い金がかかるからさあ」
なんでも、高校卒業時までに何としても小型宇宙船舶のライセンスを取得したいとのことで、このアルバイトを選んだのも卒業後の就職を考えてのことらしい。何しろ『バンブー急便』の親会社は、単身者の引越しから採掘されたレアメタルの運搬まで何でもこなす大企業『竹之内運送』だからして、今のうちに恩を売っておいて損はないのだそうだ。
(考えてみたら、ここのコロニーで竹之内に繋がってない企業なんてほとんどないんだよなあ)
今更そんなことを考えて、苦笑を漏らすレン。しかし何事にも例外はあるもので、例えば今日の配送先である『ライジングスターカンパニー』は珍しく外部からの参入企業だ。
(イベント企画会社っていうけど具体的には何をしてるんだろう……? 運び入れた荷物はみんな精密機器だったみたいだけど)
納品リストを思い返して首を傾げるレンに、運転席から声が飛んできた。
「ほら、早く乗りなよ!」
「わ、ごめん」
慌てて助手席に乗り込み、慣れない手つきでシートベルトを締めた次の瞬間、軽快に走り出すエアカー。あっという間に駐車場を出て、緩やかに流れる車列に銀色の車体を滑り込ませる。そのハンドル捌きは見事なもので、なるほどこの腕前なら小型宇宙船舶の免許にまで手を出そうというというのも頷けるというものだ。
「今日の仕事はこれでおしまいだから、とっとと報告済ませて帰らないと。これからまた教習所なんだ」
鼻歌混じりに言う彼女に、レンは愛想笑いを向けた。
「もう第一過程は終了してるんだっけ? えっと……アレキサンドラさん」
その言葉に、アレキサンドラはやだなあ、と笑う。
「アレックスでいいって言ったろ? あと、敬語もお互いなしにしようってさ」
「ああ、ごめん。つい、ね」
「ったく、真面目なんだから。……えっと、なんだっけ? ああ、第一過程ね。そう、学科とシミュレーターを使った訓練はもう終わってるんだけどさ、ここの教習所は訓練機が少なくって、いつも取り合いになるんだよ。まいっちゃうね」
地球連邦政府の定める交通法によれば、自動車も小型宇宙船舶も等しく、満十五歳から免許の取得が可能となる。レンは生憎どちらも取得していなかったが、最近では小型宇宙船舶の普及と価格低下に伴い、自家用宇宙船を所持する家庭も大分増えてきたらしい。もっとも、自宅の車庫には到底収まりきらないから宇宙港の一角に停船スペースを借りる必要があり、その費用だけでも馬鹿にならない。
「レンは免許、全然持ってないんだっけ?」
「ああ、そうなんだ。暇と時間があればとろうかと思ってるんだけど」
「だよねえ。このバイト続けるつもりなら、早目に取っといた方がいいよ」
(続ける気はないんだけどね……)
曖昧な笑みで誤魔化しつつ、心の中で溜め息をつく。
そう、何もレンは学費を稼ぐためにバイトを始めたわけではないのだ。勿論、稼いだお金は学費と生活費に回す予定だが、そもそもの始まりは先日、あの少女がもたらした一言だった。
「ここでバイトして欲しいんだっ」
渡された紙切れに、レンは戸惑いの表情を浮かべた。
「え? ……バイト?」
確か彼女は、「仕事なの」と言っていなかったか。それなのに、わざわざ司令部まで引っ張ってこられたかと思えば、渡されたのは「求人情報」と書かれた雑誌の切り抜きときた。
「うん。『バンブー急便』って言うんだけど、人手が足りなくて困ってるんだって」
「そうなんだ……じゃなくて!」
納得しかけて、レンは首をぶんぶんと振る。
「なんで、ここでバイトするのが「仕事」なのさ?」
《Shining k-nights》、それはこの月面コロニーを守る謎の警備隊ではなかったか。その隊員がなぜ、運送会社でバイトをしなくてはならないのか。
納得が行かない様子のレンに、レミーはえへ、と笑ってみせる。
「お兄ちゃん、学費自分で払ってるんでしょ? 生活費の方はほら、こっちの寮に引っ越してくれば問題ないけど、学費までは援助できないし……」
「確かにそうだけど、でもだからって」
「――調べて欲しいの」
すい、と笑みを拭い去って、レミーは告げた。
「調べる、って……?」
『私が説明しましょう』
柔らかな女声が頭上から響き渡ったかと思うと、正面のスクリーンに一人の女性が現れた。
巨大な神殿を背景に佇む銀髪の女神。彼女こそ、《LUNA-01》の中央管理システム《Selene》に他ならない。TVやパンフレットなどでなら何度も目にしたことがあるレンだったが、実物を拝むのは今日が初めてだった。
『この姿では、はじめまして、ですね』
穏やかな笑みを浮かべて言ってくる《Selene》に、慌ててぺこりとお辞儀をするレン。
「あ、いや、その。どうも、いつもお世話になってます……」
どうにも間抜けな台詞だったが、このコロニーを管理しているのは誰であろう彼女なのだ。彼女の存在なければ、レンはこの場に立つことはおろか呼吸することさえ適わなくなってしまう。
『いえ、こちらこそ。いつもレミーがお世話になっております』
丁寧にお辞儀を返して、《Selene》は早速ですが、と本題に入った。
『レンさんにお願いしたいのは、『バンブー急便』にアルバイトとして入り、その『バンブー急便』のお得意先である『ライジングスターカンパニー』の内情を密かに探って欲しい、とこういうことなんです』
説明をしながら、モニタの端に二社分の情報を出す《Selene》。そのデータにざっと目を通して、ますます首を傾げるレンに、レミーが横から口を挟んだ。
「あのね。最近、どっかの誰かが《Selene》にちょっかいをかけてるの」
楽しげに話す少女の様子に、言いようのない不安を覚え、レンはその場でがっくりと肩を落としたのだった。
「……ン。レン!?」
唐突に響いてきた声に、はっと顔を上げる。
「どうしたんだい、急に黙り込んで」
運転席からこちらを窺うアレックスに、レンはひきつった笑みを浮かべた。
「あ、いやその、ちょっと考え事をね」
「そうかい、それならいいんだけどさ。いきなり静かになるから、具合でも悪くしたのかと思ったよ」
「ごめんごめん、そんなんじゃないんだ」
先日《Selene》から提供されたデータを再検討し終えて、レンはやれやれ、と心の中で呟いた。
(渡されたデータを見る限り、《Selene》がハッキングを受けているのは確かなんだけど……)
とはいえ、《Selene》は鉄壁の防御システムを備えた最新鋭のシステムだ。そう簡単に侵入できるはずもなく、今のところ被害はない。とはいえこのまま放置しておくわけにも行かず、こうしてレンが駆り出される羽目になったというわけだ。
(やれやれ)
心の中でぼやいて、レンは小さく息を吸った。
「ぁあっ!」
突然の大声に、びくっと肩を震わせるアレックス。それでもハンドルを手放さなかったのはさすがというべきか。
「な、なんだい、急に」
「ごめん、さっきの会社に帽子を忘れてきたみたいだ」
わたわたと周囲を見回して、レンは困った顔を取り繕った。
「戻るかい?」
言うが早いか車線変更しようとするアレックスに手を振って、レンは車を止めてくれるよう頼んだ。
「一人で大丈夫だよ。悪いけど、先に帰っててくれるかな」
「別にいいけど……」
そう言ってエアカーを脇に寄せるアレックス。車が止まるのと同時にシートベルトを外し、レンは助手席から降り立った。
「それじゃ!」
「あ、ああ、気をつけて。報告はしとくけど、早く帰ってきなよ!」
あっという間に遠ざかっていくレンの後姿にそう怒鳴って、アレックスは小さく肩をすくめた。
「……ヘンな奴」
「帽子? さあ、見てないけど……」
「探させてもらって構いませんか? 一応借り物なんで、失くすとうるさくって……」
「構わないけど、あんまりあちこち入らないでね」
親切な受付嬢に頭を下げて、足早にエレベータホールに向かう。
(ベタな手だけど、これしか思いつかなかったんだもんなぁ……)
先程荷物を搬入した際に、わざと帽子を置いてきた。戻ってくる間に発見されて受付に回されていたらどうしようかと思ったが、どうにかうまく行ったようだ。
(とはいえ、内偵って言われてもなぁ……)
そもそも、この会社に目星をつけたのは誰であろう《Selene》だった。
幾度に渡って侵入を試みたハッカーは、その痕跡を巧妙に消していた。しかし、たったの一度だけ、ほんのわずかな「足跡」を残していったのだと言う。そこから割り出したのが、この『ライジングスターカンパニー』だった。
そこまで分かっていながら、なぜ事を公にしないのかと言うと、そこはそれ、色々な「大人の事情」という奴が絡んでくるからなのだが、警察を頼れない以上は自分達の手で何とかするしかない。
(……どうせだったら、こっちの会社にアルバイトで入れればよかったのに)
人気の少ない廊下を歩きながらそんなことを考えているうちに、いつの間にかレンは見覚えのある場所に辿り着いていた。先程配達に来た際、アレックスの目を盗んで帽子を隠した場所だ。
三階の突き当たり、マシンルームと書かれたドアの近くに飾られていた観葉植物の鉢。その陰に隠れるようにして転がっているオレンジ色の帽子を視界の端に捉え、どうしようか逡巡していると、不意にマシンルームのドアが開く音がした。
(やばっ……)
慌てて辺りを見回すも、身を隠せそうな場所はどこにもない。そうこうしているうちにドアが開き、中から小柄な人影が飛び出してきた。
(! ……あれ、女の子?)
扉から出てきたのは、短く揃えられた銀髪が印象的な少女だった。竹之内学園の制服に身を包み、ガラス玉のような青い瞳でじっと見上げてくる少女に、レンは何とか平静を装って口を開く。
「あ、あの、さっき荷物を運んできた運送屋なんだけど、帽子をどこかに落としちゃって、その」
その言葉に、少女はすい、と身を屈めると、観葉植物の陰に落ちていた帽子を取り上げた。
「ああ、そこにあったのかぁ」
些かわざとらしい台詞に、少女はパンパンと帽子を叩いて答えると、その帽子をぐい、と突きつけてくる。
「あ、ありがとう」
参ったなと内心でぼやきつつ、帽子を受け取ろうと手を伸ばしかけて、レンはあれ、と手を止めた。
今、少女の手の甲がわずかに光っているように見えたのだが、気のせいだったのか。
(目の錯覚、か?)
思わずぱちぱちを目を瞬かせるレン。そうしていつまで経っても帽子を受け取ろうとしない彼に業を煮やしたのか、少女はすい、と手を伸ばしてレンの手を掴むと、半ば強引に帽子を握らせてきた。
その手の冷たさに驚いた、次の瞬間。
―― S O S ――
「え?」
思わず声を上げたその時には、少女はレンに背を向け、エレベータホールへと向かって歩き出していた。
(い、今の……)
声、ではない。それは、ネットダイブしている時、またはコンピュータにジャックインして情報をやり取りする時に感じられる、あの独特の「感触」。例えて言うなら電流が走ったような、はたまた雷に打たれたような「それ」は、一種の通信文に間違いなかった。
(でも、どうやって――)
しきりと首を傾げていると、廊下の向こうからエレベータの到着を知らせる音とドアの開閉音、そして複数の足音が聞こえてきた。
(と、とにかく一旦帰ろう)
帽子を深く被り、こちらに向かってやってくる背広姿の一団と何食わぬ顔ですれ違う。
そして受付嬢に礼を言ってから『ライジングスターカンパニー』を後にしたレンは、ひとまず今日の手当てをもらうべく『バンブー急便』へ急いだのだった。