大陸を繋ぐ貿易航路の中継地として賑わう港町カナン。断崖にへばりつくようにして形成された白壁の町並みに、色鮮やかな花々が映える。
ようやく桟橋が見えてきたあたりで、頭上から声が降ってきた。
「おーい!」
見上げれば、太陽を背に羽ばたく鴎の翼。
「おかえりなさい、ザプロス号!」
「よお、オルト! 相変わらず目ざといな」
数年前に知り合った
「船長、今度の船旅はどうだった?」
「聞いて驚け、碧海航路で白鯨を見たぞ」
「すげえ!」
今日は揺れない地面を満喫しながら、土産話に花を咲かせよう。
港町カナンは坂の町だ。断崖絶壁を切り開いた町は、海岸に向けて階段状に広がっている。
荷物運搬用の大型昇降機はあるが、住民の移動手段は基本的に徒歩。それ故に、町の上層部には上下移動を厭わない
商船ザプロス号の船長バルコが贔屓にしている『止まり木亭』は、その上層部にある居酒屋だ。屋台に毛が生えたような小さな店だが、カナン港が一望できる立地と美味い酒が評判で、急な坂道をえっちらおっちら上ってくるだけの価値はある。
「いらっしゃい、船長!」
店に着くなり飛び出してきたのは、入港直前に船へとやって来たオルト少年だった。
「いつもの席、空いてるよ!」
「ああ、ありがとさん。泡酒と、あと適当に二、三品頼むよ」
ここ『止まり木亭』はオルトの両親が切り盛りする店だ。その名の通り、店内には止まり木のようなカウンター席しかないが、崖から張り出すように設置されたテラス席も用意されている。テラス席から見下ろすカナンの夜景は実に美しく、夜風に吹かれながら静かに酒を飲むのが、カナン寄稿時の楽しみだった。
「お待たせ!」
ほどなくしてお盆を手にやってきた少年は、湯気の立つ皿を手際よく並べていく。
「今日は船長の好きな白身魚の野菜煮込みがあるよ」
「そいつは嬉しいな。カナンに来るたび、これを食うのが楽しみなんだ」
「船長が帰ってきたって教えたら、父さんが張り切っちゃってさ」
本来のメニューには簡単な酒のつまみしかないが、腹を空かせてきた常連客のために賄い料理を出したところ、それがむしろ評判になってしまったそうで、最近は料理だけを食べに来る客も増えてきたらしい。
「いっそ料理屋に転向したらどうだ? この腕なら王都にだって店が出せるぞ」
「毎日、何種類も作るのは面倒なんだってさ。賄いを出すくらいがちょうどいいって」
ついでに自分の夕飯も運んできた少年は、すべての皿を並べ終えると、意気揚々と向かいの席に陣取った。
「さあ、聞かせてよ船長!」
「おいおい、せめて一口飲ませてくれよ」
苦笑を浮かべつつジョッキを持ち上げれば、少年もそれに倣った。見れば、いつもなら果汁の炭酸割りが入っている小ジョッキに、今日は自分と同じ泡酒が注がれている。
おや、と思う間もなく、咎められる気配を察知したオルトが先手を打って宣言した。
「オレ、先月で十歳になったんだ」
有翼人は十歳で成人し、独立する。彼らの平均寿命が四十歳ほどであることを考えれば、それは至極当然の話なのだろう。
「もう大人の仲間入りか。早いもんだな」
「船長だって十五で船に乗ったんだろ? 大して変わらないさ」
さんざん語り聞かせた身の上話を引き合いに出されると、ぐうの音も出ない。
彼がまだよちよち歩きの頃から見てきた人間としては、まだ時期尚早なのではという思いが拭いきれないが、種族や地域によって風習が異なるのは当たり前のことだ。部外者が軽々しく口を出せるものではない。
「じゃあ、まずはお前の成人を祝って乾杯だ」
拳を合わせるようにジョッキをぶつけ、なみなみと注がれた泡酒をぐいと呷る。船にはラム酒しか積まないから、地上で飲む泡酒は格別の味わいだ。
一方、ほとんど泡しか飲めていない状態で「苦い」と顔をしかめたオルトは、向かい側でニヤニヤと笑っている船長に気づいて、決まりの悪さを誤魔化すように夕飯の皿を引き寄せた。
「ほら、船長も冷めないうちに食べなよ」
「おっとそうだった」
大好物の白身魚に舌鼓を打ち、丸パンを千切ってソースに浸す。他にも黒胡椒が効いた芋サラダや海老と茸のオイル煮、ニシンの酢漬けなど、好物ばかりが揃っているのは偶然ではないだろう。
「芋サラダとオイル煮はオレが作ったんだ」
「やっぱりそうか。また腕を上げたなあ」
ひとしきり腹を満たしたところで、何気ない風を装って問いかける。
「――で、これからどうするんだ?」
わざと曖昧な質問にしたのは、少しばかり意地が悪かっただろうか。
案の定、オルトは少しだけ気まずそうな顔をしたものの、すぐに顔を上げ、まっすぐにこちらを見据えて口を開いた。
「オレ、郵便配達員になるよ」
それは有翼人の子供達にとって憧れの存在だ。紺色の制服に身を包み、遠い街へ手紙を届ける郵便配達員。飛翔速度と持久力、そして正確さが求められる職業ゆえ、有翼人なら誰でも就けるというわけではない。
「いいじゃないか。天職だと思うぜ」
几帳面な性格はもちろんのこと、カナンに暮らす有翼人の中でも群を抜いて飛行能力の高い彼ならば、すぐに頭角を現すだろう。
「天職だと、思う?」
ほっとしたような、それでいて少し残念そうな、何とも複雑な表情を浮かべる少年に、ここはあえて「当たり前だ」と断言してやる。
「俺の船が大海を渡るためのものならば、お前の翼は蒼天を翔けるためのものだ。適材適所ってヤツだよ」
脳裏に過るのは、在りし日の記憶。
幼い頃から船舶が大好きで、毎日のように港へやって来ては、船の出入りを眺めていた少年。
あちこちの船員を質問攻めにしては追い払われ、それでもめげずに突撃する姿に興味を覚え、声を掛けたのが最初だったか。
「オレ、大きくなったら船乗りになるんだ!」
そう語る瞳は、宝石のように輝いていて。
「船長の船に乗せてよ」
「お前が立派な大人になったらな」
「約束だよ!」
そんなお決まりのやり取りをしなくなったのは、いつの頃からだろう。
無邪気な子供でいられるのは、ほんの僅かな時間でしかないのだと、今更ながらに噛みしめる。
「しかし、お前もとうとう将来を選ぶ歳になったか」
お前と船に乗るのを楽しみにしてたんだぜ、なんて言ったら、この生真面目な友人は気に病むだろうから。
「いやはや、俺も老けるわけだな」
わざと軽口を叩いてみせれば「何言ってんのさ。父さんより若いくせに」と呆れられた。
「それじゃ、若人の前途を祝して、乾杯だ!」
すっかり泡が消えたジョッキを持ち上げて、二度目の乾杯。
今度はしっかりと泡以外も味わうことができたらしいオルトは「やっぱり苦いや」と照れくさそうに笑った。
「なに、次に会う時には、きっと泡酒の旨さも分かるようになってるさ。こいつは労働のあとに味わう酒だからな」
今回の停泊期間は三日。カナンで積み荷を乗せ替えて、今度は北を目指す。北回りの航路は点在する島々を経由するので、補給は楽だが時間がかかるのが難点だ。次にカナンへ戻ってくるのは、早くても半年後だろう。
「明日から研修が始まるんだ。それが終わったら正式に、どこかの街の郵便局へ配属される。決まったら手紙を出すよ。なんせ、オレ達は世界のどこへだって、手紙を届けに行けるんだから」
吹っ切れたような顔で、得意げに語るオルト。まだ正式採用前だというのに、気分はすっかり一人前の郵便配達員のようだ。
そう、彼らはその翼で世界を渡る。
遠い海の彼方どころか、異なる世界の果てまでも。
「ああ、楽しみにしてるよ」
遠くない未来。鴎の翼を持つ敏腕郵便配達員が、空の彼方から「おーい、ザプロス号!」と呼びかけてくる日を想像して、思わず頬が緩む。
「それまでに、俺も沢山の土産話を用意しておかないとな」
「そうだった! 聞かせてよ船長、白鯨の話!」
本来の目的を思い出したオルトにせがまれて、よし来た、と居住まいを正す。
「あれはそう、ザプロス号が碧海航路に入って三日目のことだった――」
最高の酒と肴を味わいつつ、瞳を輝かせて聞き入る年若き友人に、少しばかり脚色した冒険活劇を語り聞かせる夜。
この何にも代えがたい至福の時間も、今日で最後かと思うと、何とも寂しいものだ。
「――穏やかな海面が突如として隆起し、現れたのはザプロス号よりも大きな白鯨の姿! このまま進めば正面衝突は避けられない。さあどうしたものかと冷や汗を掻いたその瞬間!」
「その瞬間!?」
「おっと酒が切れた。お代わりを頼む」
「もー! いいところで!」
眼下には漆黒の海。頭上には星きらめく空。
ぷりぷりと怒りながらもお代わりを運んできた少年からジョッキを受け取れば、潮風が花の香りを運んでくる。
花薫る港。
出会いと別れが交差する街、カナンの夜が更けていく。