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[2]


 その時、少年は庭園の片隅に寝転がって、惰眠を貪っていた。
 何しろ、昨晩遅くまで聖句の書き取りをさせられた挙句に養父の晩酌につきあわされ、ろくに眠れなかったのだ。
 風はなく、日差しは柔らか。しかもここなら口うるさい神官共に見つかることもない。すっかり安心しきって眠りこけていたものだから、反応が遅れた。
 茂みを掻き分ける音、そして近づいてくる小さな足音に気づいた時にはもう遅く―――。
「ぅわぁっ!!」
「どわっ……!」
 脛に響いた鈍い衝撃に飛び起きれば、そこには芝生の上にぺしょ、と転がる子供の姿。
「いたたたた」
「いってぇ……なんだ、お前」
 芝生の上に胡坐を掻き、ひっくり返ったままの子供を睨みつける。顔面を思い切りぶつけたのか、額を抑えて呻いているのは、あどけない少女だった。年の頃は三つか四つといったところだろう。褪せた金髪はぐしゃぐしゃに乱れ、おまけに草やら千切れた葉っぱがくっついて、まるで鳥の巣だ。
 ひとしきり呻いた後、ようやく立ち上がった少女は、そこでようやく少年の視線に気づいて薄緑色の瞳を瞬かせた。
「おまえ、なにをやっているんだ?」
「それはこっちの台詞だ! いきなり蹴っ飛ばしやがって……」
 大した痛みはなかったが、心地良い睡眠を邪魔されたのだ。不機嫌そうにぼやく少年をまじまじと見つめていた少女は、はたと思い出したように口を開いた。
「おまえ、てをかせ!」
 唐突な言葉に、思わず目を丸くする少年。
「はぁ?」
「いいから、てをかせ! ぱうらをたすけるんだ」
 たどたどしいながらも高飛車な物言いがどうにも癇に障ったが、その切羽詰った様子が気になって、とりあえず聞き返してみる。
「パウラって誰だ?」
「わたしのともだちだ」
 胸を張る少女。威張って言うことじゃないだろう、と心の中で呟きながら、少年は面倒くさそうに問いかけた。
「で? その友達がどうしたって」
「しんでんのやねにのぼって、おりられなくなったんだ!」
「は?」
 ユーク本神殿は首都ラルスディーンでも一、二を争う巨大建造物だ。その屋根の高さは、一番低いところでも大人五人分の背丈ほどはある。
 とはいえ、裏手の納屋から伝っていけば登れないことはない。まあ、あの高さに好んで登る人間など、神殿内ではこの少年くらいしかいないのだが。
「たのむ、ぱうらをたすけてくれ」
 必死に懇願する少女に、しかし少年はふん、と鼻を鳴らした。
「なんで俺がそんなことしなきゃならねえんだ。俺は忙しいんでね、他を当たりな」
 立ち上がり、近くに放り出してあったほうきを手に取って、少年はくるりと踵を返した。嘘は言っていない。次の鐘が鳴るまでに墓地の清掃を終えておかないと、また掃除を怠けた罰と称して聖典の書写やら便所の掃除やらをさせられる羽目になるのだ。
 しかし、少女は諦めなかった。
「まってくれ!」
 歩き出そうとした途端に服の裾を掴まれて、肩を落とす少年。
「だから他を当たれって!」
「たのむ、さっきからずっとひとをさがしていたのに、だれもいないんだ。あちこちさがして、やっとおまえをみつけた。だから、おまえしかいないんだっ」
 その言葉に、少年はそりゃそうだ、と呟いた。
「今は礼拝の時間だからな、神官共は聖堂にこもってるはずだ。なに、もう少ししたら礼拝が終わるから、誰か暇そうな奴を見つけて―――」
「じかんがないんだ! このままじゃ」

 ニャーオ

 どこからともなく聞こえてきた声に、ばっと顔を上げる少女。
「ぱうら!!」
「え?」
 つられて見上げた先は、石造りの神殿。その屋根の上で動く何かは、しかし人にしては随分と小さくはないだろうか。
(まさか……)
 目を凝らしてみれば、それは茶色い縞模様の―――尻尾。
「……おい、パウラって」
「わたしのねこだ!」
 きっぱりと告げる少女に、思わず頭を抱え込む少年。
(おいおい……)
 身軽さが身上の猫が屋根から降りられないなど、何という体たらくか。
「おねがいだ、ぱうらをたすけてくれ! たのむ!」
 がし、とすがりついてくる少女の瞳には、今にも溢れんばかりの涙―――。
(やべっ……)
 慌てても、もう遅い。ふえぇ、と情けない声を上げたかと思えば、あっという間に大粒の涙がその大きな瞳から零れ落ちた。
「だぁあ、泣くなっ!」
 そんなことを言ったところで、少女の涙が止まるはずもなく。
「ぱうらはっ、たいせつな、ともだちなんだ。だから、だからっ……!」
 しゃくり上げながら、必死に言葉を紡ぐ少女。その涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔と屋根の上に見え隠れする茶色い毛並み、両方をしばし見比べて、少年はやれやれ、と深い溜め息をついた。
「もってろ」
 手にしていたほうきを少女に押し付け、足早に歩き出す。
「おい、おまえ! どこへいくんだ?」
「お前じゃなくてラウルだ。いいから、そこで待ってろ」
 有無を言わさぬ口調に、ほうきを抱えたままこくりと頷く少女。そして、ラウルと名乗った少年が神殿の裏手へ向かうのを見て、ようやく少女はぱぁ、と笑みを浮かべた。
「たのんだぞ! らうる」

* * * * *

「お、いたいた……なんだ、怪我してんのか」
 そんな呟きに、小さくにゃあ、と鳴いてみせる猫。緑色の石をあしらった首輪が、柔らかな毛並みから覗いている。
 屋根に上がったラウルが見たものは、屋根の端っこにうずくまってぷるぷると震えている小さな猫だった。茶色の縞模様はこの辺りでもよく見かける種類のものだが、尻尾が長く毛艶がいいのは飼い猫の証だ。
「ったく、人騒がせな猫だな」
 突如現れた人間に怯えているのか、耳を伏せてじっとこちらを窺っている猫に、そっと手を伸ばす。
「来いよ。お前のご主人が下で心配してるぞ」
 弱々しい鳴き声を返す猫。しかしその場を動こうとはせず、何か言いたげな瞳を向けるだけ。
「足、動かないのか?」
 それほどひどい怪我を負っているようには見えないけどな、と思いつつ、一歩踏み出す。
 途端に、猫はびくり、と体を震わせると、じりじりと後退し始めた。
「おい、そっちに行くなって!」
 ラウルの言葉に耳を貸そうとはせず、血の滲んだ前足を引き摺るようにして後ずさる猫。白茶けた屋根に、赤黒い染みがずるずると伸びていく。
「とって食いやしないから、とにかく止まれ。な?」
 精一杯優しい声を出してみるが、効果はなかった。屋根の縁まで追い詰められた形になって、ようやく足を止めた猫は、近づいてくるラウルを威嚇するように険しい声を上げる。
「よし、そのまま……」
 ゆっくりと距離を詰め、あともう少しで猫に手が届く、と思ったその時―――

 カラーン カラーン

 突如鳴り響いた鐘の音に驚いて、後ろ足ががくん、と落ちる。
 鋭い叫び声と共に、するり、と滑り落ちていく小さな体。
「くそっ!」
 何とか捕まえようとして、伸ばした手が空を掴む。同時に、大きく踏み出した足がずるり、と滑った。
「ぅあああああああぁっ―――!?」

 (落ちる―――!)
 自分の悲鳴を遠くに聞きながら、ラウルは迫りくる地面を見つめていた。
 時間が引き延ばされたかのように、ゆっくりと落ちていく体。風が粘り気を帯びて、身体にまとわりついてくる。
 ふと脳裏を駆け巡る映像。これまでの思い出が走馬灯のように流れるかと思いきや、現れたのはついさっき目にしたばかりの少女の泣き顔と、そして養父のからかうような声。
『猫を助けようとして屋根から落ちた? とんだ間抜けだな』
(てんめぇっ……)
 そのまま意識を失いかけて、ふと視界の端に茶色いものが映る。
(そうだ、猫―――!)
 咄嗟に伸ばした指が、柔らかな毛並みに触れた。無我夢中で掴んだ小さな命は暖かく、そして余りにも脆弱で。
 壊してしまわないよう、そっと胸に抱えた、次の瞬間―――

「―――!!」

 不思議と、痛みはなかった。
 ただ、身体が地面に叩きつけられた鈍い音と猫の鳴き声、そして、パタパタと駆け寄ってくる小さな足音が聞こえて、それらが急速に遠のいていく。
 ―――そして。

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