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第五章[16] |
最初に見えたのは、光――。 幾重にも描かれた魔法陣から立ち上がる光。高らかな詠唱は螺旋を描いて、光の柱を駆け上がっていく。 確固たる呼び声が『意識』を生み、織り込まれた契約をなぞって形を作っていく。 そうして月の大地より切り離され、展開された術式を手繰るように地上へと降り立てば、零れるような笑顔が迎えてくれた。 「お名前は?」 そう問われて、契約に際して無作為につけられた個体名を紡ぐと、鈴のような声が何度もそれを復唱した。 それ自体には何の意味もない、ただの音の連なり。それなのに、呼ばれるたびに胸が暖かくなるような、そんな気がした。 「はじめまして、セシル。私のお友達。これからどうぞよろしくね」 差し出された手に戸惑っていると、強引にぎゅうぎゅうと握られた。 その手の暖かさを、まっすぐに向けられた眼差しを、今でも覚えている。 その日から、《夢幻の織手》セシルは、召喚魔術士ソフィアの『友達』となった。 彼女との生活は、まさに戸惑いの連続だった。 「違うわ、セシル。私はあなたのご主人様じゃないの。友達よ。友達同士は名前を呼び合うものよ」 何度もそう注意されたので、ソフィアと呼ぶことにした。友達という概念は理解しがたかったが、そんなことで飛び跳ねて喜ぶ彼女が面白くて、用もないのに名前を呼んだりした。 普段は影の中で過ごし、呼ばれればすぐに現れるように心がけたが、その際には彼女と同じ年頃の娘の姿を取るように厳命された。元々、幻魔族は不定形の種族だ。どんな姿も思いのままだったから、それは容易かった。 「そう、その姿なら一緒に歩いていても見咎められたりしないもの!」 しかし、その姿で連れて行かれた先と言えば、最近できたおしゃれな雑貨屋だったり、美味しいと評判のパン屋だったり、はたまた話題の芝居小屋だったりと、護衛が必要とは思えない場所ばかり。 わざわざ自分を呼び出さずとも、親しい人間と一緒に行けばいいのに、と思ったりもしたが、よくよく観察してみると、彼女には師匠である老魔術士オーグのほかに親しい人間がいないことに気づいた。 「何故って……そうね、ほら、綺麗な薔薇には棘があるっていうじゃない? みんな痛い思いをしたくないから、触れようとしないのよ」 冗談めかして笑う彼女だったが、それはあながち間違ってはいなかったようだ。 事実、彼女は美しかった。三日月のように冴え渡る美貌、艶やかな紅茶色の髪。のびやかな肢体に美しい声――。 しかしそれらは、あまりに整い過ぎていたのだ。重なる好条件は近寄りがたい雰囲気を醸し出し、人々を遠ざけていた。まして彼女は魔術士だ。市井の者から見れば、その存在自体が畏怖の対象だ。 「いいの。だって、私にはあなたがいるもの。そうでしょ、セシル。私のお友達」 そう言って、彼女はひたすらに己を高めることに心血を注いだ。寝食を忘れて研究に没頭し、オーグに諌められるほどだった。 だから、その実力を認められて宮廷魔術士に大抜擢された時は、自分のことのように嬉しかった。 「聞いてセシル! 私、宮廷魔術士になったのよ! 明日からは王宮で暮らすの! なんて素敵なんでしょう!」 子どものようにはしゃぐ彼女の顔は、太陽のように輝いていた。 当時の宮廷魔術士は総勢二十四人。彼らを束ねているのが宮廷魔術士長のオーグで、ソフィアは彼の秘書的な役割を担うこととなった。そんな異例の人事を快く思わない者もいたようだが、しかし彼女は持ち前の聡明さと細やかな気配りでオーグをよく補佐し、空いた時間は魔術の研鑽に励んだ。 その頃の王宮はロジオン王子の誕生に沸き上がっていた。第一王妃エディセラは世継ぎの王子を産んだのだから責任は果たしたとばかりに、王や生まれたばかりの王子ともろくに顔を合わせようとせず、取り巻き達と贅沢三昧の日々を送るようになっており、またロジオン王子は生まれながらに病弱で、成人できるかどうかも危ぶまれていた。 様々な噂や憶測が飛び交う王宮で、しかし宮廷魔術士達は雑音に耳を貸すことなく、ただひたすら研究に没頭する毎日を送っていた。勿論、彼女もその一人だ。 「好きなだけ研究ができて、それで暮らしていけるんだもの。これ以上素敵なことってないわ」 そう言って笑う彼女の横顔は、それでもどこか寂しそうだった。 しかし。そんな孤独な宮廷暮らしに、やっと光明が差した。それも、眩しすぎる光明が。 「なあお主。ちょっと手伝ってはくれぬかな?」 月明かりが照らす夜の庭で、わざわざ頭を下げて頼んできたのは、国王ヴァシリー三世その人だった。 「……陛下。私を誰だと思ってらっしゃいます?」 召使いにでも間違えられたのかと思って尋ねた彼女に、王は不思議そうに目を瞬かせて答えた。 「宮廷魔術士のソフィアだろう? お主の呼び出した魔族は幻惑の魔術が得意と聞いた。警備の目をすり抜けて城を抜け出すくらい、お手の物ではないか?」 ぱちりと片目を瞑られて狼狽える彼女に、王はとどめの一言を放った。 「ずるいぞ、お主だけ。私も一緒に連れて行ってくれても罰は当たらんと思うが、どうかな?」 要するにこの王は、彼女と同じことを企んでいたわけだ。 思わず吹き出した彼女は、ひとしきり笑い転げた後、鈴を転がすような声でこう呼んだ。 「セシル、出てきて」 するりと影から抜け出し、彼女の横に並ぶ。突然現れた私の姿を見ても、王は顔色一つ変えなかった。むしろ興味深そうにこちらを眺め回したかと思うと、ぽんと手を打った。 「お主がそうだったのか! 時折宮廷内で姿を見かけると思ったが、まさかなあ」 これには意表を突かれた。この姿でいる時も、極力人目につかないよう注意を払っていたというのに。 彼女も同じ気持ちだったのだろう。驚いてはいたが、同時に楽しそうでもあった。 彼女はやっと見つけたのだ。この息詰まる王宮の中で、本音で話すことのできる人間を。 「陛下。この子はセシル。私の友達です」 「そうか。セシル。私はヴァシリー・アレクセイ・レナートだ。親しいものはアーリクとかアレクと呼ぶが、まあ好きに呼んでくれ。よろしく頼むぞ」 にゅっと伸びてきた手を、恐る恐る握る。その手は、あの時の彼女と同じく、とても暖かかった。 彼女は嬉しそうだった。だから私も嬉しかった。 熱烈な求婚に根負けして第二王妃の座についてからも、彼女の暮らしぶりは何一つ変わらなかった。忙しい政務を縫って顔を出す王と庭で語らうその顔は、幸せに満ち満ちていた。 ただ一つ、彼女の顔を曇らせていたのは――口さがない人々の噂話。 仲睦まじい二人の間には、子が生まれなかった。 王がそれを責めるわけはない。子を成すことだけが妻の責務ではないのだからと、しきりと彼女を慰めていた。 責めたのは周囲だ。とりわけ、第一王妃とその取り巻き達は、子を成せぬ王妃など必要ないと事あるごとに騒ぎ回り、そのたびに彼女は人知れず涙を流していた。 彼女が泣いているのを見ていることしかできないのは、とても辛い。 だから、決めた。 |
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