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【2】

〜マースヴァルト魔術士ギルド 復活暦705年・秋〜


 それは、古ぼけた一冊の帳面だった。
「これが……?」
 些か拍子抜けしているディオに、魔術士ギルドの長である老人は重々しく頷いてみせる。
「はい。シエナ劇場の隠し部屋から見つかり、内容を検討した結果、そのように判明しました」
 年の頃六十を越えた老人が、どう見ても二十代前半のディオに畏まっているのは異様な光景だが、致し方ない。実力からすれば、ギルド長といえどディオには及ばないのだ。
「で、内容は?」
「はい、それが……」
 声を落として告げられたその内容に、ディオは思わず目を見張る。
「……なんだって?」
「ですから、この内容はギルドでも主だったものにしか明かしておりません。ご安心下さい」
「ああ、すまない……」
 ギルド長の気遣いに感謝しながらも、ディオは半ば上の空でその帳面をじっと見つめている。
 くすんだ赤い表紙の、どこにでもあるような帳面。表紙には何も書かれていない。
 しかしその内容は、あまりにも衝撃的なもの。
「……読んでいいか?」
「勿論です。その後の処分もディオ様に一任いたします。我らには余りにも重すぎますでな……」
「ああ……分かった。悪いが、この部屋を借りるぜ。誰も入れないでくれ」
「承知しました」
 そう言って静かに部屋を出て行くギルド長。扉が完全に閉められたのを確認して、ディオは机へと向かう。
(ノーイの、手記……)
 逸る気持ちを抑えて、椅子に腰掛け冊子を手に取る。
 隠し部屋から発見されたという冊子。それは、まるで誰かを待っているかのように、机の引き出しに大事にしまわれていたと言う。
 そっと表紙をめくろうとして、はたと立ち上がるディオ。
『我が魂に満ちる力よ、全てを封じる孤独の殻にて空間を閉ざせ』
 歌うように呪を結ぶと、瞬く間に魔の波動が部屋中に満ち溢れていく。珍しく略式呪文を使わず、長々と、きちんと韻を踏んだ呪文を唱えたのは、慎重を期すためか。
 扉や窓は魔術的に封じられ、外から開けることも、魔術にて透視することも不可能となった部屋で、これで安心とばかりにディオは椅子に座り直した。
「お、いい椅子使ってやがるな。ったく、塔にもこのくらいの上等な家具を入れて欲しいぜ」
 などとぶつくさ呟きつつ、ディオは再び帳面に手をかける。
 ここに記されているのは、真実の記録。
 かつて、魔術による恐怖政治を行い、民衆を苦しめたヴェストア帝国最後の皇帝、ルシエラ・エル=ルシリス。
 そのルシエラに仕えた宮廷魔術士ノーイが書き記した、悲しき魔女帝の真実が、ここに眠っている。

 魔女帝を打ち倒したのは、革命五英雄。そしてその一人こそ、稀代の魔術士ディオ=ジール。
 魔女帝の最期をディオは忘れない。彼の仲間である剣士ユーリスの剣によってその身を貫かれ、
壮絶な最期を遂げた彼女の姿は、彼の脳裏に今も鮮明に蘇る。
 革命の英雄と、帝国の魔女。しかし二人は、別の宿命で結ばれていた。
 そしてそれを証明するものこそ、この古びた手記。
 それは、ディオが長い間捜し求めていたもの。『母』の真実の姿を記した、唯一の手がかり。
「ルシエラ、か……」
 彼女に関する記録はほとんど残っておらず、ディオ自身彼女が実の母であることは、革命後しばらく経ってから知った。それを彼に教えた者も、もうこの世にいない。
 帝国時代の資料は革命とその後の動乱によって失われ、人々は過去を記憶の奥底にしまい込み、今を精一杯生きている。それは彼も同じだ。
 過ぎてしまった時間に、終わってしまった歴史に、囚われることはない。
 それでも、どうしても知りたいと思う気持ちがディオの中にはあった。
 衝撃の事実を知らされてから一年と半分。その思いは常に、彼の心の片隅に存在していた。

 わずかに残った記録は告げている。
 かつて、魔女帝ルシエラは優しく穏やかな少女だった、と。
 彼女はどのように生きたのか。そして、どのように変わってしまったのか。

「教えてくれノーイ。俺の……母のことを」
 覚悟を決めたように呟き、ゆっくりと頁をめくる。緊張に冷たくなった指先がかすかに震えているのにも気づかない様子で、ディオはどんどんと頁を繰っていく。
 時を経て黄ばんだ頁に、几帳面な文字が踊っている。
 書かれたのは革命終結前夜。そうとは思えないほど、文章は明瞭に、そして淡々と綴られている。
 淀みなく流れるその文章に、ディオは次第に引き込まれていった。

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