6.空を翔るもの 地を駆るもの
 リファと別れた後、宿へと駆け戻った二人は、飲み物と焼き菓子を振る舞ってくれた気のいい店主とひとしきり世間話を繰り広げていた。
 エルクの服装の話で盛り上がっているところに窓の外から鐘の音が響いて来て、はたと大事なことを思い出したのはラーンの方だ。
「そうだ、親父さん。急な話で悪いんだけど、今日これから出立することになったんだ」
「ええ? 今からかい? いや、寂しくなるなあ」
 もう夕方も近いし、明日の朝にすればいいのに、と引き留めてくれたが、そうも言っていられない。宿賃の精算だのはリファが帰ってからすることにして、まずは荷物の整理をするために部屋へと向かう。
「俺は着替えればすぐに出られるんだけどな。一番店を広げてる奴がいないんだから、困ったもんだ」
「仕方ありませんよ。僕で分かるものは片付けておきますから」
 それじゃあ、とお互いの部屋の扉を開けようとした、正にその時――。
 バンッ、と何かがぶつかるような音。続いて、耳を劈くような甲高い鳴き声が鳴り響き、思わず二人して耳を押さえる。
 両手で塞いでもなお聞こえてくる、その笛のような金属的な響きを、エルクの耳は明確な言葉として捉えていた。
『キケン!! キケン!! キケン――――!』
「ロキ!?」
 慌てて扉を開け、部屋の中に飛び込めば、きちんと閉めておいたはずの鎧戸が大きく開いて、曇天の空が覗いているではないか。
 慌てて窓辺に駆け寄り、大きく身を乗り出してじっと目を凝らす。
(ロキ、どうして――、何があったの!?)
「あそこだ!」
 遅れて部屋に駆けこんできたラーンが指し示したのは、広場のそばに聳え立つ大きな楡の木の辺りだった。風もないのに梢が揺れ、小鳥達が一斉に飛び立っていく。
 その楡の木を掠めるようにして、高く上空へと舞い上がっていく小さな輝き。薄く差し込む太陽光を反射して照り輝く緑色の鱗は、間違いない。ロキだ。
「ロキ――――!!」
 エルクの声が届いたのだろうか、すでに小さな点となった緑色の影が、一度だけくるりと旋回して、そして雲間へと消えていく。
「ラーンさん、どうしよう、ロキが!」
 おろおろと縋りついてくるエルクの肩を掴んで、ぐるりと扉の方を向かせると、ラーンはその背中をばんと叩いた。
「追うぞ!」
「は、はいっ!!」


「……なるほど、それで宿を飛び出てきたところに、ちょうど私と出くわしたわけですね」
 二人の話を聞きながら、忙しなく荷物をしまい込んでいたリファは、そう話をまとめると、最後の薬瓶を背負い袋に押し込んだ。
「よし、これで終わりです。お待たせしました。行きましょう」
「あのっ、本当にロキの居場所が分かるんですか?」
 道端で出くわした直後、宿に戻ることを提案されてから、ずっと落ち着かない様子のエルクに、リファは苦笑いを浮かべて、先程説明したことをもう一度繰り返す。
「大丈夫ですよ、エルク。ロキが宿している大地の力、その波動は独特のものです。向かった方向は分かっているんですから、あとは波動を手掛かりに追いかければ、すぐに見つかりますよ」
 精霊術士でもあるリファだからこそ使える、いわば裏技のようなものだと説明されて一度は納得したものの、どうしても焦りで胸がいっぱいになってしまう。
 リファの腕が信用できないわけではないが、なにしろロキには翼がある。あの速さで飛び出していった彼に追いつくのは至難の業に思えた。こうしている間にも、ロキとの距離はどんどん開いていくのだ。
「忘れ物はないな? よし、行くぞ二人とも」
 荷物を担いだラーンが我先にと部屋を出ていき、エルクも大慌てで荷物を背負い直すと、リファと共にラーンの背中を追いかけた。
「それにしても、ロキが急に飛び出して行った理由は何なんでしょうね」
 階段を足早に降りながら、ふと呟くリファ。この町に来てからというもの、大人しく部屋で日向ぼっこを満喫していた彼が、急に言いつけを破って外に飛び出していったのだ。まさか「虫が出た」とか「妙な物音がした」とか、そんな理由で出て行ったとも思えない。
「僕、確かに聞きました。キケン、キケンって繰り返していたんです」
 いつものロキの、あのたどたどしい喋り方とはまた違った、緊迫感溢れる叫び。例えるならそう、警備隊の鳴らす呼子笛のような――。
「ロキが飛び出て行ったのは、あなた方が宿に戻って少し経ってから、でしたね」
「はい。教会の鐘が鳴った少し後でした」
 ふむ、と顎を掴み、足を止めるリファ。
「もしかして……アレですかね」
「え? リファさん、思い当たることがあるんですか?」
「ちょうど同じ頃、あの食堂で連中が妙な物を取り出したんですよ。その途端、周囲の空気が変わったように感じました。何と言ったらいいのか……とにかく、嫌な感じがしたんです」
 時同じくして、「キケン」と叫んで飛び出したロキ。先程の店から宿屋までは二区画ほど離れているが、彼があの異変を察知して飛び出したのだとしたら――。
「忘れ物はないかね? まったく、さっきは急に飛び出していくからびっくりしたよ」
「いやあ、悪いわるい。ちょっと野暮用を思い出してさ」
 唐突に店主とラーンの会話が耳に飛び込んできて、急いで階段を駆け下りる。
 改めて急な出立になったことを詫び、宿賃の支払いと鍵の返却を済ませると、店主はこれを持ってきな、と籠を手渡してくれた。
「少ないけど夕飯にでもしてくれ。宿の手伝いをしてくれたお礼だよ」
「なんだよ、宿賃もまけてくれたのに、こんなおまけまでもらっちゃっていいのか?」
「これでも足りないくらいさ。またこの町に来ることがあったら、きっと寄ってくれよ」
 それじゃ遠慮なく、と籠を受け取って、差し出された手を握るラーン。
「もちろん、また寄らせてもらうよ。ついでに、あっちこっちでこの宿の宣伝しとくから、客が押しかけても慌てんなよ、親父さん」
 楽しみにしてるぜ、と笑う店主に手を振って、宿を後にする。
 この数日ですっかり通い慣れた道を辿って広場に出れば、門はすぐそこだ。
 足早にやってきた三人に、来た時と同じ門番がおお、と顔を上げ、ちょいちょいと手招きをした。
「例の連中、本当に来やがったな」
「ええ。門番さんが知らせて下さったおかげで、彼らと鉢合わせずにすみました。本当にありがとうございます」
 極上の笑顔を向けるリファに、それがな、と声をひそめる門番。
「あいつら、食事をしたいって言うから旨い店を紹介してやったのに、さっさと戻ってきたかと思ったら、あっという間に町を出ていっちまったんだ」
 不審に思って問い質したものの、『任務だ』の一点張りで取りつく島もなかった。しかも彼らが所持していた通行証はレイド国の首都警備隊が発行した正式なものだ。文句のつけようがない。
 そう語る門番に、眉根を寄せるリファ。一方、それを聞いたラーンは噛みつかんばかりの勢いで門番に問いかける。
「連中、どっちに向かった!?」
「そ、それが……しばらくこの道を真っ直ぐ進んでたんだが、途中で急に立ち止まってな。しばらくしてまた動き出したかと思ったら、北東の方角に向かって行ったんだ」
 道の先を指し示し、ほらあの木の辺りだよ、と付け足す門番に、リファはにっこりとほほ笑むと、ありがとうございます、とその手を握りしめた。
「貴重な情報をいただき、本当に助かりました。紹介して下さった宿もとても良いところでしたし、どんなに感謝しても足りないほどです」
「いやぁ、そんな大したことは……」
 途端に相好を崩す門番に、それではと優雅に一礼をして、くるりと二人に向き直る。
「さあ、行きましょう」
 返事を待たずに歩き出ししたリファに、慌ててその背中を追う二人。すぐに追いついて、一言文句を言ってやろうと口を開きかけたラーンは、相棒の顔を覗き込んで、ぎょっと目を剥いた。
 先程門番に向けた、大輪の花のような笑顔はどこへやら、険しい表情で前方を見据える魔術士。とてもではないが、軽口を叩けるような雰囲気ではない。
「おい、リファ?」
「話は後です。彼らが向かった先が気になります」
 杖を握りしめ、長衣の裾を翻して足早に進むリファ。
 そうして、あっという間に門番の言っていた木のところまで辿り着くと、説明もなしに呪文を唱え始めたものだから、まだ魔術そのものに慣れていないエルクは思わず目を瞬かせた。
「リファさん、一体……」
「しっ、今は話しかけるな」
 そう止められて、慌てて口を閉ざす。すぐに詠唱を終えたリファは、杖で目の前の地面をとんと突くと、力強く断言した。
「ここで魔術を使った痕跡が残っています。探知系の術ですね」
「え……? それって、どういう……?」
 きょとんと首を傾げるエルクに、淡々と続けるリファ。
「――あなた方が窓から見た光景を、彼らもまた目撃していたとしたら?」
 宿と食堂とはさほど離れていない。そして彼らは例の水晶をうっかり人目に晒したのち、すぐに店を出て門に向かっている。その途中で、空を翔ける緑色の輝きを目にしたとしたら――。
「ロキが危ない!」
 顔面蒼白になって叫ぶエルクに、リファは苦い顔で頷いた。
「ええ。連中に発見される前に、急いで保護しないといけませんね」
「リファ、あいつの居場所、辿れるか?」
「今やってます。……やはりこちらですね」
 しばし目を瞑っていたリファは、ばっと目を開けると、北東の方角――雑木林の彼方を指差した。それはまさしく、『黒ずくめの連中』が向かったのと同じ方角だ。
「それほど遠くまでは行っていないようです。急ぎますよ!」
「よっしゃ!」
 勢いよく雑木林へ飛び込む二人に半歩だけ遅れて、エルクもまた下草を蹴って走り出す。
(ロキ、無事でいて――!!)
 エルクの胸中を映し出すかのように、頭上に広がる空はますます雲に覆われて、冷たい風が背を撫でるように吹き抜けていく。
「エルク!」
 唐突に名を呼ばれて顔を上げると、ラーンがぐいと左手を伸ばしてきた。
「お前まではぐれたら困る。つかまれ!」
「はいっ!」
 繋いだ手の暖かさに、焦燥感で張り裂けそうだった心が、ほんの少しだけ楽になる。
「あのトカゲ野郎、あっさり捕まってやがったら、ただじゃおかないからな!」
 ぶんぶんと拳を振るラーンに、思わず吹き出してしまってから、エルクはわざと怒った声を出した。
「もう、ラーンさん。ちゃんとロキって呼んであげてくださいよ」
「言うことを聞かずに飛び出してく奴はトカゲ野郎で十分だ!」
「馬鹿なこと言ってないで、足を動かしてください!」
 前方から飛んできた叱責に、うへえと肩をすくめるラーン。しかしすぐに気を取り直すと、リファに追いつくべく速度を上げた。そんなラーンに引っ張られて、エルクもまた懸命に足を動かす。


 風は追い風。がむしゃらに進む彼らを励ますように、軽やかにその背を押し、火照る頬を撫でて、彼方へと過ぎていく。
 ざわめく緑野の彼方に待ち構えているのは、小さき友か、それとも因縁の相手か。
 未来を知る瞳も、空を翔る翼も持たぬ彼らは、ただひたすらに道なき道を駆ける。
 それこそが、希望をその手に掴む唯一の方法と信じて。
空を翔るもの 地を駆るもの・