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野薔薇に寄す

 一瞬の沈黙。それを打ち破る、声にならない叫び声。
 それまで呆然と立ち尽くしていた観客達が、我に返ったようにざわめき出す。
 そんな中、誰よりも早く舞台に駆け寄ったのは、黒い神官衣に身を包んだ壮年の男だった。
「小僧、しっかりしろ!」
 スウェンを押しのけるようにして舞台に上がり、その華奢な体を抱き起こす。素早く呼吸を確かめて安堵の表情を浮かべたところに、ジェットとリゲルがやってきた。
「やっぱり、ラウル! どうして、こんなこと……」
「っていうか、一体何がどうなってんだ!? なあ、親父さん。どういうことか説明してくれよ」
 口々に言い募る二人を見上げて、男は口元をわずかにほころばせた。親父さん、と呼ばれたことが照れくさかったのか、それともラウルを心配する友人達の存在をありがたいと思ったのか。男――ダリス=エバスト高司祭――は、すぐに表情を引き締めると、力なく横たわる息子をぐい、と抱き上げた。
「詳しい説明は後だ。どこか、この子を休ませられるところはないかね」
「えっと……」
「奥の部屋を使ってくれ。鍵は開いてる」
 突然割り込んできた声は、店主のものだった。彼はスウェンの肩を抱きながら、ついと舞台袖の扉を指差す。
「ありがたい」
 言うが早いか、足早に歩き出すダリス。その後を、慌ててジェットとリゲルが追いかける。
 そこは、かつて歌姫が控え室として使っていた部屋だった。現在は半分以上物置と化していたが、荷物を動かして場所を確保し、そこにラウルの体をそっと横たえる。
「一体、どうしてこんなことに……」
「なあおい……息、してるよな?」
「大丈夫だ、息も脈もしっかりしてる。ただ、このまま目を覚まさないとなると……」
 言葉を途切れさせ、小さく頭を振るダリス。不吉な考えを振り払い、必死に呼びかける。
「小僧! 目を開けるんだ!!」
 ――と、鮮やかに染められた目元が、わずかに動いた。
「ラウル!」
 三人の声が重なる。そうしてゆっくりと目を開いたラウルは、途端に嫌そうな顔をして、
「なんであんたがここにいるんだ、くそじじい」
 いつもの調子で言い放ったのだった。
「馬鹿者、なんて危険なことを……! 一歩間違えれば引きずられていたぞ!」
 怒ったように言いながら、起き上がろうとするラウルに手を差し伸べるダリス。迷惑そうな顔を無視して腕を掴むと、何を思ったかぐい、とその体を引き寄せる。
「わ、やめろ気持ちわりい!!」
 突然抱きすくめられて、じたばたともがくラウル。その耳元に顔を寄せ、ダリスはそっと囁いた。
「よくやったな」
「じじい……」
 意表を突かれたか、急にしおらしくなる息子をもう一度だけ抱きしめて、ダリスは満足げに手を離す。そうして解放されたラウルは、照れているのかしきりと頭を掻き混ぜながら、片隅で立ち尽くす友人達へと視線を投げかけた。
「で? なんでお前らまでいるんだよ」
「それはこっちの台詞だぜ。すっかりご無沙汰かと思ったら、妙な登場しやがって」
「一体、何がどうなってるの?」
「そうだ、きちんと話してもらわんことにはな」
 ちゃっかり便乗しているダリスを軽く睨みつけて、ラウルはああ、もうと呟く。
「面倒くせえな……。だから、あの歌姫だよ」
「は?」
「あのおっさんと同じように、歌姫の方も未練を残してたのさ。で、墓場でうろうろしてるのに出くわしちまってな。ったく、貧乏人の葬儀は金にならないからって、手抜きすっからああいうことになるんだぞ」
 手厳しい言葉に、面目ないと頬を掻くダリス。
「じゃあ、その歌姫の幽霊に会ったってこと?」
「ああ。めそめそうるせえから、仕方なく貸してやったんだよ」
「貸すって、何を」
 ジェットの問いかけに答えることなく、ただ肩をすくめるラウル。そして、思い出したように自分の格好を見下ろすと、大仰にぼやいてみせた。
「ったく、何が悲しくてこんな格好しなきゃなんねえんだ」
「そうか? よく似合っているぞ?」
「そうそう。俺としたことが、うっかり惚れちまいそうだったぜ」
「ふざけんなっ!」
 かっとなって怒鳴りつけるが、そのなりではどうにも迫力に欠ける。思わずくすくすと笑うリゲルをきっと睨みつけて、ラウルは乱暴に顔を拭い出した。
「あーあ、折角の美人が台無しだね」
「リゲルッ!!」
 懸命に化粧を落とそうとする息子に苦笑を浮かべ、ダリスはふと深刻な面持ちで呟く。
「……しかし、危険なことをしたな。いくら死者の声が生者に届かないとはいえ、自らの体に憑依させてまで声を届けようとするとは」
 その言葉でようやく事情を飲み込んだ二人は、うへぇと顔をしかめた。
「ラウル、無茶するなあ……」
「あのくらいで満足してくれたからいいけどよ、そのまま一夜過ごす、なんてことになったらどうするつもりだったんだ?」
「やめろ、考えただけで鳥肌が立つ……。そこんとこはちゃんと、一曲歌う間だけって約束しといたからな」
 げんなりとした顔で答えるラウル。
「しかし、約束を守るとは限らないだろう」
 一度体を明け渡してしまえば、あとは彼女の思うままだ。そのまま居座られるどころか、完全に乗っ取られる可能性さえあったのというのに、彼はそれを承知で禁呪を用いたのである。
 とんだお人よしだな、と心の中で呟いて、ダリスは思い出したように付け足した。
「理由はどうあれ、禁呪に手を出したんだ。謹慎処分くらいで済めばいいが……覚悟しておくんだぞ」
「分かってるさ」
 軽く答えて、真紅の衣装を捲り上げる。と、そこに扉を叩く控え目な音が響いてきた。
「誰だよ」
 ぴたりと手を止め、不機嫌な声を出すラウル。と、扉がわずかに開いて、店の看板娘がひょい、と顔を覗かせた。
「すみません、スウェンさんがお話したいって」
 何故か頬を染めながらそう告げて、すぐに顔を引っ込める少女。そして入れ替わりに現れた男は、躊躇いがちに部屋へ入ると、後ろ手に扉を閉めた。
「その、坊主……」
 おずおずと口を開くスウェンに、ぶっきらぼうに答える。
「ラウルだ。……気ぃ済んだかよ」
「ああ、すまなかったな。お陰で、彼女に再会することが出来た」
 灰色の瞳はしかとラウルを見据え、その声にもう迷いはない。
 過去から解放された男の姿に、ラウルはわずかに笑みを浮かべた。それも一瞬のこと、すぐにいつもの生意気な顔に戻って、駄目押しとばかりに付け加える。
「言っとくが、もうローザはいないぜ」
「分かっている。本当に、ありがとう」
 すい、と右手を差し伸べてくるスウェンに目を見張って、照れくさそうに手を伸ばす。そのほっそりとした手を力強く握り締めて、スウェンはもう一度、ありがとうと呟いた。
 そうして、晴れ晴れとした顔で部屋を後にするスウェンを見送り、ラウルはさて、と三人を睨みつける。
「お前らも出てけ。着替えの邪魔だ」
「なんだよ、別にいいじゃねえか、男同士なんだから」
「あほ、お前らがいると狭いんだよ! っていうかじじい、そもそもなんでここにいるんだ!?」
 もっともな疑問に、ダリスはむっと言葉を返した。
「何を言うか、お前が本を持ち出して消えたと聞いて、慌てて探しに来たんじゃないか。まったく、ここを探し当てるのにどれだけ苦労をしたと……」
「どうやって探したんですか?」
 思わず尋ねるリゲルに、ダリスはよくぞ聞いてくれた、とばかりに続ける。
「そこら辺の別嬪さんに片っ端から声をかけてな、うちの息子を知らないかと尋ねて回ったんだよ」
「なんつー恥ずかしい真似を……」
 頭を抱えるラウルの横で、ぷっと吹き出す二人。
「さすがはお前の親父さんだなあ」
「それは褒め言葉なのかね?」
「あはは、どうなんでしょう」
 なにやら和やかに話し込んでいる三人を無視し、ラウルは着替えに取り掛かった。
「ったく、なに仲良くくっちゃべってんだか……」
 借り物の衣装を脱ぎ捨て、手早く服を身につける。そして最後に髪を結ぼうと紐を取り上げたところで、ぐらりと床が傾いだ。
「あれ――?」
 違う、傾いでいるのは自分の方だ。そう気づいた時には、ラウルの体は床板の上にひっくり返っていた。
「だ、大丈夫!?」
 慌ててリゲルが手を差し伸べるが、それを掴むことすら出来ない。
「ち……」
 苦々しく呟いて、まるで言うことを聞かない体を恨めしそうに見つめる。その体を抱き起こしながら、ダリスはやれやれ、とため息をついた。
「術の反動が出たな。まあ、二、三日は大人しくしていることだ」
「ああ」
 投げやりに答えるラウル。あれだけの荒業をやってのけたのだ、肉体に負担がかからないわけもない。しかしまあ、仕事を怠ける口実になっていいか、などと考えているラウルの傍らで、ダリスがきらり、と瞳を輝かせた。
「しかし、困ったな。その体じゃ歩けんだろう。よし、すまないが君達、手伝ってくれるかね」
 言うが早いかラウルの体を二人に預け、その前にしゃがみ込む。その意味するところを即座に理解して、悪友二人はにんまりと笑みを浮かべた。
「りょーかい」
「ほらほら、ちゃんと腕回して」
「やめろよ、子供じゃあるまいしっ!!」
 一瞬遅れて抗議の声を上げたラウルだったが、なにしろ体に力が入らないものだから、彼らの手を振り解くことすら出来ない。
「いいじゃねえか、たまには親父さんに負ぶわれるのも」
「よくねえっ!」
「ほら、暴れるな。落っこちるぞ」
 結局、あっさりと負ぶわれることになったラウルは、あまりの恥ずかしさに顔を上げられないでいた。そうすると自然、養父の肩に顔を埋める格好になる。それがまた、親に甘える子供のようで、余計に恥ずかしい。
 それでも、神官衣越しに伝わってくる体温、ほのかに漂ってくる匂いが無性に心地良くて、気づかれないように頬を押しつける。
 そんな、不器用に懐いてくる息子に気づかない振りをして、ダリスはよいしょ、と掛け声をかけた。
「しっかり掴まっていろ」
 まだ十六とはいえ、決して小さくも軽くもない体を背負い、力強く立ち上がる。
「それじゃ、失礼するよ」
「は、はい。あ、扉!」
 スタスタと歩き出すダリスに、慌てたリゲルが扉を開けに走った。ありがとう、と微笑み、弾むような足取りで扉をくぐる。
 その向こう、がらんと静まり返った店内では、店主が鼻歌を歌いながら杯を磨いていた。
「おや、お帰りかい」
「ああ。……今日はもう店じまいかね」
「あんなことがあった後じゃな。……ああ、勘違いしないでくれよ。みんな謎の歌姫に心奪われちまって、酒どころじゃないんだと。揃いも揃って呆けた面してやがったんで、飲まないなら帰れって叩き出してやったんだよ」
 はは、と乾いた笑い声を上げるダリス。これからしばらく、街は「謎の歌姫」の話題で持ちきりになるだろう。さしものラウルも、当分は大人しくしているしかなさそうだ。
「しかしまあ、久々にローザの歌を聞けて、嬉しかったよ。ありがとうな、坊主」
「俺はちっとも嬉しくない」
 そっぽを向いたまま、ぶすっと答えるラウル。その頭を乱暴に撫でて、店主は豪快な笑い声を立てる。
「ほとぼりが冷めたら、また飲みに来な」
「酒の一杯や二杯は奢ってくれるんだよな?」
 ちゃっかりと言ってくるラウルを小突き、店主はまあいいだろう、と頷いた。
「さて、神殿のうるさ型が騒ぎ出す前に戻るとしようか」
 邪魔したね、と声をかけ、再び歩き出すダリス。扉を押し開け、裏通りに出たところで、背後から賑やかな声が飛んできた。
「送り狼に気をつけろよ、歌姫!!」
 見れば、入り口でリゲルとジェットが手を振っている。
「てんめぇ、今度会った時、覚えてろよ!」
 激昂する息子をよしよし、と宥めながら、ダリスは熱気溢れる夜の街へと足を踏み出した。


 満月に照らされた夜道に、足音だけが響く。
 雲ひとつない空にぽっかりと浮かぶのは、見事な満月。いつまでも追いかけてくる月を仰ぎ、ダリスはすい、と目を細める。
「これだけ明かるければ、街灯などいらんな」
 繁華街を抜けれてしまえば、そこは闇の領域。静寂が支配する世界は、彼らが信奉する少年神ユークの管轄だ。
 遠くから、宵の四刻を告げる鐘が響いてくる。本神殿では今頃、深夜の礼拝に向けて準備が進められていることだろう。このまま真っ直ぐ帰れば十分間に合うが、戻ったところできっと礼拝どころではなくなるだろう。本神殿長をはじめとするお偉方に捉まって、朝まで説教されるのがオチだ。
 ならば報告は明日にして、今日はこのまま自室に引き上げよう。オーロには心配をかけるが、どのみちラウルの方は礼拝に出られるような状態ではない。
 ダリス自身もまた、都合二回の礼拝をすっぽかしたことになるが、後悔はしていない。
「それにしても、俄仕込みの禁呪をあそこまで使いこなすとは、お前も相当――」
 背後から伝わってくる寝息に気づいて、ダリスは思わず口元を緩ませた。
 大人しいと思ったら、いつの間にか眠っていたらしい。ずり落ちてきた体をひょい、と背負い直し、感慨深く呟く。
「大きくなったな、ラウル」
 出会った時、少年は片手でも抱えられるほどに軽く、あばら骨が浮き出るほどに痩せ細っていた。八歳だと言い張ってはいたが、実際のところはそれよりも一、二歳ほど下なのかもしれない。物心ついた頃にはすでに貧民街の片隅で暮らしていたという彼は、自身の生年月日はおろか、両親の顔も名前も知らなかった。あの街ではそれが当たり前なのだと聞かされて、改めて我が身の不甲斐なさを呪ったものだ。
 ひたすらに人の手を拒み、生意気な口を利くばかりだった子供。それがいつの間にやら成長し、こんなにも頼もしい存在となっていた。そのことが嬉しくもあり、寂しくもある。
「私を越える日もそう遠くない、か」
 それでも、もう少しだけ、この手の届く場所にいて欲しいと願ってしまうのは、いわゆる親心という奴だろうか。
 と、どこからか笑い声が聞こえた気がして、ぎょっと辺りを見回す。しかし、周囲に人影などはなく、ただ夜空の月が淡い光を投げかけてくるのみ。
 まさか、と呟いて、肩越しに我が子を窺う。
「……気のせいか」
 漆黒の髪から覗く、あどけない寝顔。
 天鵞絨のような夜に包まれて、その顔はかすかに微笑んでいるように見えた。

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