lost child


 暑い。息が詰まる。おまけに尻が痛い。
 たまらず窓を開けようとして、隣から伸びてきた手に押しとどめられた。
「止めておけ。土埃が入る」
 言われてみれば、硝子窓越しの視界はすっかり白茶けている。首都からしばらくは石畳で舗装されていた街道も、この辺りまでくれば剥き出しの地面を平らに均しただけの道となる。そこにきてここ半月も好天が続いているのだ、大地はからからに乾き、馬車が走れば辺りに土埃を撒き散らすこととなる。
 ちぇ、と呟いて手を引っ込めると、隣の座席に腰掛けていた「保護者」はその琥珀色の瞳を楽しそうに煌かせ、こう聞いてきた。
「馬車の旅は初めてか」
「当たり前だろ。こんな窮屈なもん、誰が好き好んで乗るもんか」
 首都ラルスディーンと東の大都市タラントを繋ぐ乗合馬車は、かの地で開催されている大祭に向かう人々で満員だ。十二名の定員を三名も超過している上に、乗客の一人がかなりの巨漢で、余計にぎゅうぎゅう詰めになってしまっている。
 この狭い空間に十五人、しかも季節は初夏。そこへ来て、先ほどから家族連れが弁当など使い出したものだから、馬車内は惨憺たる状況になっていた。少年がたまらず窓を開けようとしたのも無理はない。
「だから、膝の上に座れといったのに」
「ふざけんな」
 吐き捨てるように即答すると、その険のある台詞に驚いたのか、母親の膝の上でパンにかぶりついていた少女が目を丸くしてこちらを見つめてきた。そのまっすぐな視線が鬱陶しくて、ふいと顔を逸らす。
 そう、普段なら定員以上の客など乗せない乗合馬車が十五人もの人間を乗せているのは、余剰の三名が子供だったからだ。うち二名は年端も行かない兄妹で、両親の膝の上に大人しく収まって初めてらしい馬車の旅を楽しんでいた。残る一人が先ほどから悪態をついている黒髪の少年で、彼は喜んで膝を提供しようとした養父を「子供扱いするな」の一言で切って捨て、狭苦しい窓際の席に陣取ったのだった。
「坊や、もうじきタラントの街に着くから、それまで我慢しておくれね」
 車内を狭苦しくしているもう一つの原因、巨漢の男が汗を拭き拭き言ってくる。その言葉通り、埃まみれの窓の向こうを古びた木の標識が過ぎていった。少年はまだ読み書きが完璧にこなせるわけではなかったが、そこに刻まれた「タラント」の文字は読み取れたので、さして面白くもなさそうにふん、と鼻を鳴らす。
「タラントまで15クレイルか、あと一刻もあれば到着するな」
 標識を読み取って、にこりと笑いかけてくる養父に、黒髪の少年は小さく溜息をついた。
 街に着いたとて、窮屈さに変わりはない。物理的なものから精神的なものに変わるだけの話だ。なにせ、彼らの目的地はタラントのユーク分神殿。その神殿長へと書簡を届け、その返事を頂いてくることが二人の――正確に言えば養父であるダリス=エバスト司祭の――使命である。この話を持ちかけられた時は、辛気臭い本神殿から少しでも離れられる、と喜んだものだが、行き先もまた神殿とあっては息抜きにもならない。
「そう腐るな。お使いついでに祭の見物をしてこいなんて、なかなか粋な計らいだろう?」
「祭なんて見慣れてる」
 見慣れてはいるが、決してそれを楽しんでいたわけではない。少年にとって祭とは「稼ぎ時」を意味していた。羽目を外して浮かれ騒ぐ地方からの見物客など、それはもういいカモになる。懐中を狙うもよし、情に訴えかけるもよし。しかも彼らは得てして地理に明るくないから、滅多なことでは捕まらない。
「ああ、そうだ。これを渡しておくぞ」
 何やら難しい顔をして黙り込んでしまった少年に、ダリスは懐から小さな袋を取り出して手渡した。掌に載せた瞬間、金属の触れ合うかすかな音が響く。
「……なんだよ、これ」
「小遣いだ。祭で何か欲しいものがあったら、それで買うといい。なに、私の金じゃない。神殿長がくれたんだ。お前と私と、それぞれにな。全くあの人は、人を幾つだと思っているんだか……」
 苦笑を漏らす養父を呆れたように見上げつつ、渡された小遣いを服の隠しに押し込む。使うあてはなかったが、返す義理もない。
「タラントの大祭は首都の新年祭に勝るとも劣らない、そのくらい大規模な祭なんだ。一度はぐれたら二度と会えないと思え」
 だから街に入ったら手を離すなよ、と念を押してくるダリスに、少年は冗談じゃない、と呟いて、そして再び窓の外に目を向けた。
 曲がりくねった道の先には小高い丘。それを越えた先が緑の街タラントだという。
 先は長いな、と心の中で呟いたところで、まるで相槌を打つかのように馬車がガタンと大きく揺れた。


 毎年五の月に行われるタラントの花祭は、大陸統一戦争時代に活躍した英雄とその勝利を讃える祭が時代と共に変化したものだ。現在では精霊に扮した人々が御輿を担いで街を練り歩き、その御輿から大量の花びらを辺りに撒き散らして街中を花で埋め尽くすという、大層華やかな祭となっている。
 御輿は最終的に中央広場に集結し、その年の英雄役に選ばれた若者が精霊役の乙女から祝福の接吻を受けて、華々しく幕を下ろす。それからは夜通し飲んで踊って浮かれ騒ぐのが慣わしだ。
 十五名の乗客を乗せた馬車がタラントの街に到着した時には、すでに街の各地から花を満載にした御輿が出発した後で、街はにわかに活気付いていた。晴れ渡った青空の下、街のあちこちから歓声が上がり、人々は御輿を一目見ようと足早に去っていく。
「こりゃあ、今年は例年にない盛り上がりようですなあ」
「何でも今年の乙女役は大層な別嬪さんだとかで、英雄役を巡って熾烈な戦いが繰り広げられたとか……」
 他の馬車で来たらしい旅人達の会話を何とはなしに聞きながら、少年は御者と何やら話し込んでいる養父に視線を送った。
「……なるほど、助かったよ。世話になったね」
 すぐに御者との会話を切り上げ、こちらにやってくるダリス。その手には地図が握られていて、どうやら分神殿の場所を確認していたと分かる。
「すまん、何しろこの街に来るのは久しぶりでね。ここは街並みが入り組んでいるから、道を選ばないととんでもないところに出てしまう」
 さあ行くか、と手を差し伸べて、あっさりと拒否されたダリスは、わざとらしく溜息をついてみせた。
「そう意地を張らずに、神殿へ着くまで我慢して手を繋いでくれ。でないとはぐれてしまう」
 半ば強引に右手首を取られ、渋々ダリスについて歩き出す少年。自分はもう十歳なのだ、子供扱いするのは止めてくれと口を酸っぱくしていっているのに、この養父はどうしても聞き入れてくれない。それどころか、少年の反応を楽しんでいる節がある。
「おお、賑わっているな。さっさと用事を済ませて、祭に繰り出すとしようじゃないか」
 人込みをうまくすり抜けながら、そんなことを言ってくる養父。街の賑わいに子供のように瞳を輝かせているところなど、もうじき五十に手が届くとは思えない。実際、彼の顔には目立った皺もないし、淡い金髪もその輝きを失ってはいない。ユークの神官衣に包まれた体は適度に引き締まり、逃げ出す少年を全力疾走で追いかけても息切れしない程度の体力を備えている。
 しかし何よりも彼を若々しく見せているのは、その琥珀色の双眸だろう。親しい友人達が口を揃えて「悪戯小僧の目だ」と評する一対の瞳は、ともすると隣を歩く少年よりもきらきらと輝いている。
(ったく、何がそんなに楽しいんだか……)
 げんなりした顔の少年を尻目に、今にも踊り出しそうな調子で大通りを進んでいたダリスだったが、広場手前にずらりと並ぶ屋台の一つを目ざとく見つけて頬を緩ませた。
「お、あれがあるぞ。ちょっと寄っていこう」
「ってえなあ、急に引っ張るなよ! あれってなんだよ、あれって」
 盛大にぼやきつつ、養父の視線を辿る。そこには揚げたパン生地に様々な具材を載せた食べ物が売られていた。この辺りの名物料理なのか、随分と人が集まっている。
「あれはうまいんだ。神殿へ行く前に、軽く腹ごしらえと行こうか」
 途端に顔を輝かせ、速度を上げる養父に、やれやれと心の中で呟きつつついていく少年。とっくの昔に昼を過ぎていて腹が減っていたのもあるが、こうと決めたらてこでも動かない養父の性格を知っているからでもある。軟派なふりをして、中身はとんだ頑固者なのだから全くたちが悪い。
 お目当ての屋台で慣れた様子で二人分の注文をし、目の前で揚げられるパンに心底嬉しそうな顔をするダリス。腸詰と野菜を挟んだものと砂糖と肉桂をまぶしたもの一つずつを受け取って、熱々のそれを半分に割ろうとしたところで、突然背後から威勢のいい声が飛んできた。
「いよう、ダリスの旦那じゃないか!」
 ぎょっとして振り返った二人の目の前で、にかっと白い歯を見せて笑っていたのは、黄緑色の翼が目に眩しい空人の男だった。すらりとした長身に赤銅色の肌、手には色とりどりの鳥の羽をあしらった長槍と、どこか南国の雰囲気を纏った男の姿に、ダリスは目を見開いて叫ぶ。
「サヴィー! 高き風のサヴィラークじゃないか、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞さ。本神殿に勤めてるはずのあんたがどうしてここにいる? まさか、とうとう追い出されたか」
 にやり、と笑ってみせる空人の脇腹をこいつ、と小突いて、ダリスは嬉しそうに辺りを見回した。
「お前がここにいるってことは、ジュディとダルトンの親父さんもいるんだろう?」
「勿論だとも、といいたいとこだがな、ジュディは結婚して田舎に帰ったよ。ダルトンの旦那はほら、そこの屋台で買い食いの真っ最中だ」
 見ろよ、と広場の方を示そうとして、突如沸き起こった歓声に翼を震わせる。
「花を! 英雄に祝福あれ!」
「花を! 大地に平和を!」
 街の各地を出発した御輿の一つが、早くもここまでやってきたのだ。高々と担ぎ上げられた御輿の上から、華麗な衣装を纏った娘達が花びらを振り撒く。その勢いたるや、舞い踊る花びらで目の前が見えないほど。それに加えて御輿を取り囲む人の群れが目の前を忙しなく行き過ぎ、とても落ち着いて会話するどころの騒ぎではない。
 しばし目を見張って輿が通り過ぎるのを待ち、ようやく人の波が引いたところで、空人は所在なく上げたままだった指をもう一度正しい方向に直し、ほらと花びらに埋もれた屋台を示してみせた。
「あそこにダルトンの旦那が……っていねえな、もう」
 まさか、さっきの波に飲まれたかな? と呟くサヴィーの隣で、はっとダリスが顔色を変える。
「小僧!?」
 つい先ほどまで隣にいたはずの黒髪の少年の姿は、どこにもなかった。

黒髪の少年の行方を追う 壮年の神官の行方を追う