ギギ、ギィ〜ギギ、ギギギギ……
 錆びた蝶番を無理やり何度も動かしているような、そんな金属的な音が響き渡る路地裏を、そーっと進む。
「この音、なぁに?」
 首を傾げるルフィーリを横目に、怒ったようにつかつかと路地を突き進むローラ。
「ろーらぁ?」
「この音は、あれだ」
「あれ?」
 訳も分からずローラの後を追っていくと、すぐに突き当たりに出た。
 僅かに陽光が差し込む裏路地の奥、乱雑に詰まれた木箱に腰掛けて、小難しい顔で弓を振り回す青年。二人の接近にも気づかない様子で、一心不乱に騒音を垂れ流す彼の鼻先で、ローラはパンパン、と手を打った。
「えっ……!?」
 それでようやく顔を上げた青年は、目の前に立つ少女二人を訝しげに見つめて、口を開いた。
「あんた――」
「調弦が狂ってる、以前の問題だな」
 誰何を遮り、ぴしゃりと言い放つローラ。その一言で石のように固まった青年は、年の頃はローラよりも少し上か、ひょろひょろとした風貌はいかにも頼りなげで、ろくに櫛も入れていないのだろうぼさぼさ頭とずれ落ちたた眼鏡が相まって、まるでうだつの上がらない学者の卵のような様相を呈している。しかし手にしているのが飴色に艶めく弦楽器、というのがそぐわない。
「音叉は持ってないのか?」
「いや、あの……っていうか、あんたら、だれ?」
「誰でもいいだろう。そんな騒音を垂れ流されたら迷惑だ」
「騒音――!? ……そうか、騒音か……」
 憤りかけて、がくりと項垂れる青年。その手に握られている楽器に興味津々のルフィーリは、物怖じなく青年の隣まで歩みを進めて、木目も美しいその楽器に顔を近づけた。
「これ、なに? がっき?」
「なんだ、見たことないか? ヴァイオリンっていうんだ。フィドルともいうけど」
 少しだけ元気を取り戻して、すいと楽器を構える。こうやって弾くんだぜ、と格好をつけてみる青年に、ぱちぱちと手を打つルフィーリ。
「なにか、ひいて〜♪」
「ああ、いいよ」
 それでは、とおもむろに弓を滑らせれば、再び流れ出すひきつれた金属音。たちまち耳を押さえるルフィーリを抱き寄せて、ローラはやれやれ、と首を振った。
「音が合ってない。弾き方も悪い。それじゃいつまで経ってもまともな音が出ないぞ」
 手厳しいローラの言葉に、青年は弓を振るう手を止めて、再びがっくりと肩を落とす。
「分かってるんだけどさあ、どうにもならないんだよ」
「どうにもならない? なぜだ?」
「……どうやっていいか分かんないから」
 おいおい、と呆れた顔のローラに、青年は困ったように笑って、さっきから楽器に触りたそうにしている小さな少女に、ほい、とヴァイオリンを手渡した。
「わあっ♪ さわって、いい?」
「そーっとな。そんなんでも一応、親父の形見だからさ」
「かたみ?」
「そ。俺の親父、辻ヴァイオリン弾きだったんだ」
 それはもうきれいな音色を響かせて、道行く人の足をすっかり止めさせたんだぜ、と懐かしそうに語った青年は、それから気恥ずかしそうに髪をくしゃりとかきまぜた。
「親父が生きてた頃は興味なかったんだけどさ。いざ親父が死んじまって、このヴァイオリンだけが残って……。なんかもったいなくなってさ。あの音をもう一度聞きたい、なんて思って練習してんだけど」
 やっぱ才能ないのかな、と自嘲気味に笑う青年。そんな話を黙って聞いていたローラは、ふと思い立ったようにルフィーリへと歩み寄ると、にゅっと手を伸ばした。
「ちょっと貸してくれ、妹」
「うん、いーよ?」
「っておい、それ俺の――え?」
 ぐい、とヴァイオリンを押し付けられて目を白黒させる青年。そんな彼を前にして、ローラは昔を懐かしむように語り出した。
「あれは幾つくらいの頃だったかな。どうしてもそれが弾きたくて、宮廷楽師にコツを聞いてみたことがある」
 ――どうやったらそんなに美しい音が出せるんだ?
 小さな姫に尋ねられて、年老いたヴァイオリン奏者は、それでは一つだけコツをお教えいたしましょう、と笑った。
「幼子の髪を撫でるように、だそうだ」
 優しく、愛情を込めて。力を抜いて、流れるように。
「あたま? なでる? やさしく?」
「そうだ。我が妹は賢いな」
 よしよし、と柔らかな金髪を撫でるローラ。その様子をしげしげと見ていた青年は、唐突にそうか、と呟いた。
「力みすぎてたってことか……よし」
 意を決したようにヴァイオリンを構える青年に、ローラがびしりと言い放つ。
「まだ力が入ってるぞ。深呼吸して、力を抜いて」
「うっ、分かってるよ」
 すーはーと深呼吸をし、そっと弓を弦にあてがう。
 そうして流れ出す、柔らかな音色。
 決して上手いとは言い難かったが、次第に音は艶やかさを増し、楽しげな旋律が風に溶ける。
「わあ、きれい、きれい♪」
「うん。いい音だ」
 気紛れな風との二重奏はしばし二人の耳を楽しませ、そして唐突に、バチンという音と共に終わりを迎えた。
「やば、切れちまったか」
 見れば、四弦あるうちの一本が見事に切れてしまっている。
「もう、ひけない?」
 悲しそうに見上げるルフィーリにまさか、と笑って、青年は愛しそうにヴァイオリンを見つめた。
「家に帰れば予備の弦があるから。ちゃんと張り替えて、また練習を頑張るよ」
 そうして、ようやく思い出したように、こう付け加える。
「俺、ロシオっていうんだ。覚えておいてくれよ。そのうち、きっと有名になるから。『ソレル随一の辻ヴァイオリン弾き、ロシオ=デュウ』ってな」
「ローラ国随一の腕前になったら、是非また聞きに来よう」
 うわ、でかいこと言うなあ、とロシオは笑い、そうしてひょいと右手を差し出した。
「分かったよ。国一番のヴァイオリン弾きになって、あんたらの前でもう一度弾いてみせるさ。それにはまず、名前を聞かないとな」
 差し出された手をぎゅっと握り締め、二人はそれぞれに自己紹介をした。
「ローラだ。今は旅をしている」
「るふぃーり! たびびとー♪」
「ローラにルフィーリか。よーし、覚えたぞ」
 にかっと笑うロシオの声をかき消すように、遠くから鐘の音が聞こえてきた。四回と二回に分けて響き渡る鐘は、夕の二刻を知らせるもの。
「まずい、早く買い物をして帰らないと用心棒にどやされる」
「たいへん、たいへんっ」
 慌てふためいて踵を返す少女二人に、ロシオはじゃあな、と弓持つ手を振った。
「また会う時まで元気でな、小さな旅人さんたち」
「ああ。ロシオもな」
「まったねー♪」
 賑やかに路地を駆けて行く二人が通りに出るまでを見送って、はたと首を傾げる。
「買い物……? そっちは確か――」


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