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7

 北の果て半島は、確かに『歪んで』いた。
 歪みの中心に近づくごとに、何やら空気が体にまとわりつくように感じる。まるで水の中を進むように。
 景色もおかしかった。蜃気楼のように上下逆に見えたり、まっすぐなものが曲がって見えたりする。
「歪みの中心地は、あそこです」
 トゥーラン神殿の高司祭が、数十ルー先の空中を示した。確かに、空中にまるで水の波紋のようなものが現れている。
「歪みが発生したのは二月ほど前。この手紙にあるセリン王国の歪みから少し時間のずれがありますが、歪み方はほとんど同じようですね」
 その隣にいるルファス神殿の高司祭が続ける。
「これは、未来からの歪みなんですか? それとも過去?」
「おそらくは未来からでしょう」
 サミュエルの問いに、ルファス神殿の高司祭は答えた。
「更に言えることは、この歪みは魔術によるものだ、ということです」
 北の塔七賢人の一、『魔』の賢人が苦々しく言う。
「つまり、未来で何かが起こり、魔術によってルナがオレのところに現れた。そしてすぐに、まるでルナを取り戻すかのように同じ歪みが現れている、と……」
 ライカがまとめる。
「でも、歪みの出現地点が違うのはなぜなんでしょう?」
「こういった術は、よほど熟練していても、同じ場所や同じ時間を目標にするのは難しいんですよ。場所や時間がずれたのはそのせいでしょう。むしろ、これだけずれを最小限に収めたのはすばらしい腕です」
 『魔』の賢人が言う。
「この赤ん坊には『目印』の魔術がかけられていますから、時空の彼方から赤ん坊を目印に魔術を使ったんでしょうね」
「それで、どうすれば歪みは戻るんですか? やっぱりルナを返せばいいんですか?」
 サミュエルの問いに、ルファス、トゥーランの高司祭と『魔』の賢人は、多分、と前置きをして頷いた。
「ライカ、どうするの?」
「もちろん、そうするしかないだろ。あの歪みの先は未来に繋がってる。ルナを返せば時空を繋いでおく必要もないんだから、あっちで魔術を切ってくれるさ」
「でも、誰がその魔術を使ってるの? もしそれがルナに危害を加える奴らだったらどうするのよ?」
 もしそうだったら……。いや、もしそんな事態に未来がなっているのだったら、未来の自分達はどうなっているのだろう? 死んでしまっているのだろうか……。
 と、突然、歪みを観測していた一人が叫んだ。
「歪みが、いえ、歪みの中に、人の姿が!」
 全員がそちらに視線を向けた。
 空中に浮かぶ波紋の中央に、半透明の女性の姿がぼんやりと現れたのだ。
 半透明の女性は辺りを見回していたが、サミュエルを見つけるとにっこり笑って手を差し伸べてきた。
「金の髪、茶色の瞳……あれ、お前じゃないか?」
 ライカが半透明の女性に視線を釘付けにしたまま言う。
「あたし……? あれ、あたしなの?」
 サミュエルは信じられないまま呟いた。確かに、似ている。あたしにそっくり。年は二十代後半くらいか。
 ルナが笑って、小さな手を差し伸べた。
 サミュエルはルナを強く抱きしめると、そのきれいな青い瞳を見据えて言った。
「あなたのお母さんなのね? ルナ。未来のあたしが、ルナのお母さんなのね?」
 ルナが笑う。
 ルナは分かっていたのだ、とサミュエルはふと思った。あたしが母親であること。ライカが父親であること。
「お母さんのところに帰りましょうね。ルナ」
 サミュエルはもう一度ルナをしっかりと抱きしめると、歪みに向かって一歩ずつ、歩き出した。そのすぐ後ろにライカが続く。
 波紋の中に入り、半透明の女性に手が届くくらいまで近づくと、サミュエルはルナを差し出した。半透明の女性、未来のサミュエルが、嬉しそうにルナを受け取る。受け取った瞬間手と手が触れ合い、サミュエルは心の中に声が響くのを聞いた。
(……ありがとう、サミュエル。昔の私……)
 腕の重さがなくなり、寂しさが心を満たす。でも必ず会えるのだ。近い未来に。
 ライカがサミュエルの肩に手を置いて、目の前に浮かぶ未来のサミュエルに、
「頑張れよ!」
 と声をかける。未来のサミュエルは笑って答えた。
 そして、二人の姿がだんだんと透明になり、波紋が小さくなっていき――そして、消えた。

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