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calling 〜冬枯れの森にて君を呼ぶ〜


 ―――――!!
 声にならない声が脳裏に響き渡る。そして、白く塗り潰された視界の彼方に、エスタスは少女の笑顔を見た。
 大好きな精霊使いと手をつなぎ、笑い声を響かせて空へと駆け上がっていく光の乙女。
(そうか、会えたのか……)
 それは、ただの幻にしか過ぎないのかもしれないけれど。それでも、良かったな、とエスタスは安堵の息を漏らす。
 そうして、ようやく慣れてきた瞳で辺りを見回すと、魔術士と何やら話しているアイシャの姿が目に入った。
「ありがとう。おかげで、助かった」
「いえ、とんでもない。大したお役には立てませんで……。しかし、驚きました。精霊が人を支配しようとするなんて」
 その言葉に、はっと思い出す。
「そうだ、さっきの……。あれ、どういうことなんだ?」
 突然会話に割り込んできたエスタスに、アイシャはふい、と視線をそらして、呟くように答える。
「精霊の言葉は原始の言葉。存在そのものに呼びかけ、時にそれを支配する」
「……へぇ」
 今一よく分からずに、ぽりぽりと頬を掻くエスタス。と、見かねた魔術士が口を挟んだ。
「ええとですね、精霊使いは精霊と契約を結ぶことがあるんですが、その際に用いるのが名前なんです。名前とはその存在を定義づけるもの。魂そのものを表すと言っても過言ではありません。ですから、名を明かすということは己の魂を曝け出すも同然。故に、力あるものに名を掌握されれば、大変なことになるわけでして……」
「つまり、先程僕らが互いの名前を口にしたがために、あの光の精霊はそれを利用して僕らを支配下に置いた、とそういうことだったんですね」
 いつの間にやら話の輪に加わっていたカイトが、なるほどと頷く。
「いや、それは分かるけど、その後アイシャがオレ達の名前を呼んで、急に支配が解けたのは――」
「私が、支配したから」
 ぼそり、と告げるアイシャに、目を丸くする二人。
「支配って……」
「オレ達を、か?」
 こくん、と頷いて、アイシャはすい、と視線を逸らした。
「……ごめん、なさい」
 支配されることの苦しみをその身で体感した二人だ、さぞ盛大な非難の声が上がると思いきや、
「なぁんだ、そういうことか!」
「それなら問題ないじゃないですか、なんでそんなに思いつめた顔してるんです?」
 明るく笑い飛ばす二人に、目を瞬かせるアイシャ。
「どうして? 一時的とはいえ、私は二人を――」
「だって、アイシャは僕達を操ったりしなかったでしょう?」
 さも当然のことのように言うカイト。
「だったら、何の問題もありませんよ。ねえエスタス」
「そうそう。むしろ、何も知らないで名前を口にしたオレ達が悪いんだし、そもそも頼まれもしないのに、勝手に追いかけてきたんだから……ってわけで、ごめん」
 深々と頭を下げるエスタスに、一瞬遅れてカイトが倣う。その頭を撫でるように、爽やかな風が広場を吹きぬけた。
『ね? だから言ったでしょう。アイシャは悪い方に考え過ぎだって』
 楽しそうな声は、風の乙女のものだった。
「それ、どういうことです?」
 不思議そうに見上げてくるカイトに、乙女はくすくすと笑いながら答える。
『名を以ってその自由を縛る。故に汝、名を軽んずることなかれ。アイシャのお師匠様が口を酸っぱくして言ってた言葉だけど、今時古臭いっての。だって、要するに心がけ次第ってことじゃない。わたしはアイシャに縛られてるなんて思ってないし、不自由を感じた事なんてないもん……ねえ、あんたはどう思う? ちょっとの間でも使役されて、どう感じた?』
 唐突に話を振られて、それまで魔術士と雑談をしていた闇の精霊は、そうだねえ、と腕を組んでみせる。
『呼び出した精霊を奴隷のように扱き使う精霊術士もいるけど、このお嬢さんは好きなようにやらせてくれたしね。今時の精霊術士としてはいい方じゃない? だからボクの名前、教えてもいいよ』
 どう? と片目を瞑ってくる精霊に、アイシャは静かに首を横に振った。
「私はこれ以上、誰も束縛したくない。だから――」
 かつて、少女は風の乙女と契約を交わした。それが精霊から自由を奪うものだと、知りもしないで。
「私が死ぬまで、この子は私から離れられない。私のせいで……」
『もう、だからアイシャは頭が堅いっていうのよ!』
 やれやれ、と頭を抱える風の精霊。その横で、カイトが何か思いついたようにぽん、と手を叩いた。
「ねえアイシャ。名前に力があるって言うのは、その通りだと思います。だって、こうやって名前を呼ぶたびに、僕らはどんどん親しくなっていくんだから」
 きょとん、とするアイシャの手をぎゅっと握って、カイトはエスタスを手招きする。
「僕とエスタスとアイシャ。三人で旅をするようになって、もう二年も経ちます。その間に僕らは、何度あなたの名前を呼んだことでしょう。そしてあなたがそれに答えてくれるたびに、僕らの距離は確実に縮まっていった」
 そうでしょう? と見上げてくるカイトに頷きを返し、エスタスもまた手を重ねる。
「支配って言葉は適切じゃないよな。あれはきっと、信頼の証だ。信頼している相手だからこそ、全てを委ねられる。信頼しているからこそ、喜んで力を貸す。そういうことなんじゃないのか?」
 最後の言葉は風の乙女に向けられたものだった。エスタスの問いかけに、乙女はその通り、とばかりにくるり、とエスタスの頭上を旋回して、アイシャの隣にひらりと降り立つ。
『あなたより彼の方が分かってるじゃないの。そういうことよ』
「信頼……」
 呟いて、どこか照れたように二人を見つめるアイシャ。その背中をせっつくように、風の乙女が柔らかな風を起こす。
 そうして、アイシャはおずおずと口を開いた。
「エスタス……?」
「なんだ」
「カイト……?」
「はい、なんでしょう」
「名前、呼んで……いい、の?」
 尚も躊躇うアイシャに、二人は苦笑を漏らす。
「だから、いいって言ってるじゃないか」
「仲間同士、名前で呼び合うのに何の遠慮がいりますか。何度でも呼んで下さい。そのたびに、僕らの絆はどんどん強くなっていくんだから」
 妙に饒舌な相棒に、内心で溜め息をつくエスタス。まったく、普段は人のことなどお構いなしで知識欲のままに突っ走っているくせして、実は誰よりも仲間思いなのだから恐れ入る。
「あの、盛り上がっているところすいませんが……」
 申し訳なさそうに割り込んできた声は、魔術士のものだった。
「あの亡骸はあのままで良いのですか?」
「そうだな、ちゃんと弔わないと」
 旅途中で果てた精霊使いの姿は、彼らの末路かもしれないのだ。徒や疎かには出来ない。
「どうしようか。ひとまず、埋めておくか?」
 とはいえ、ここには満足な道具もない。手で掘るのは時間がかかり過ぎるな、と呟きながら亡骸に近づこうとするエスタスを制して、カイトが一歩前に進み出た。
「こういう時は僕の出番でしょう」
 そう言ってすい、と地面に膝をつき、両手を組み合わせる。そして歌うように祈りを唱えるカイトの目の前で、亡骸はまるで流砂に吸い込まれるように、ゆっくりと大地に沈んでいった。
「お前の神官らしいところ、久しぶりに見る気がするな」
 思わず苦笑を漏らすエスタス。カイトの仕えるルース神は大地を司る女神でもある。その奇跡の技が冬枯れの森に眠る旅人を大地へと誘う様を、彼らはただ静かに見守った。
「よし。後でゲルク様を呼んで、ちゃんとお弔いをしてもらいましょうね」
 ふぅ、と溜め息をついて立ち上がるカイト。わずかに盛り上がったその場所に、エスタスが近くに転がっていた石を据える。
「これで目印になるよな。しかし、あのゲルク様がここまで来てくれるもんかなあ」
「もう大分冷え込みますしねえ、春まで無理かもしれませんね」
 村の神殿を守るゲルク老は御年八十四歳。村きっての頑固爺と評判の彼は最近、持病の神経痛を理由に神殿から一歩も出ようとしない。そればかりか、近年は弔いの文句を忘れる、故人の名前を間違える、更には墓穴を掘っていて腰を痛めるという体たらくで、それでいて本人は生涯現役だと頑張っているものだから、村人達もほとほと困り果てている。
「早いとこ、代わりの神官さんが来てくれればいいんですけどねえ」
 しみじみと呟くカイトに肩をすくめ、さて、と立ち上がるエスタス。
「何はともあれ、帰るとするか」
 そう言って踵を返した途端、闇の精霊が彼らの前に立ちはだかった。
「わっ、何だよ……」
『ボクも帰るよ。ホントなら昼間になんて出てきたくなかったんだからね』
 見れば、少年の姿は向こう側が見通せるほどに透け、今にも消えてしまいそうだ。
 そんな少年に改めて向き合い、アイシャは深々と頭を下げる。
『ありがとう。とても、助かった』
『どういたしまして。なかなか面白かったから、これからもボクを呼んでくれると嬉しいな。ボクの名前はユルトだよ、アイシャ!』
「!」
 驚くアイシャの頬にすい、と唇を寄せて、少年は風の中に融けていった。
「あいつ……! どさくさに紛れてなんてことを」
「闇の精霊って随分と気障なんですねー。いやぁ、勉強になりました」
 二人の呟きを聞き流して、アイシャはさて、と空を見上げる。いつの間にか空にはうっすらと雲がかかり、梢を揺らす風は冷たさを増してきた。
『また天気が悪くなりそうね。早く村に戻って、洗濯物を取り込んだ方がいいんじゃない? じゃ、わたしは先に行ってるよ』
 そう言って広場を飛び出していく風の精霊。一陣の風となり森を駆け抜けていく乙女を見送って、アイシャは歩き出した。
「帰ろう」
「そうですね。僕、おなか空いちゃいましたよ」
「食事もそこそこに飛び出てくからだろ! とっとと帰って、メシにしようぜ」
 陽気な声を上げて、その背中を追いかける二人。少し遅れて歩き出した魔術士は、ふと広場を振り返ってぽつり、と漏らした。
「それにしても、《竜木》が人里のそばにあるだなんて驚きですね」
 その言葉に、瞳を輝かせるカイト。素早く魔術士の隣にやってくると、堰を切ったように喋り出す。
「あなたもそう思いますか! いやあ、僕もさっきから気になってたんですよ。何しろ《竜木》というのは、上位精霊である竜族の力を宿した木ですからね。住処までとは行かなくても、この辺りに竜がいることは確かです。しかし、この辺りの昔話にも竜は出てきませんし、あの《竜木》だって昔からあったなら、薬草を摘みに入った村人が気づいているでしょうから、竜がこの地を訪れたのはごく最近ということで……」
「そこまで」
 手っ取り早くカイトの口を手で封じて、エスタスは呆れた声を出した。
「腹減ったって言ったのはどこの誰だ? さっさと帰ろうぜ」
「あ、そうでした。じゃあこの話はまた後ほど、ということで」
 その言葉に、魔術士は残念そうに笑ってみせる。
「申し訳ないのですが……」
「もしかして、村には戻らないんですか?」
 はい、と頷いて、魔術士はアイシャへと声をかけた。
「大したお役には立てませんでしたが、貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございます」
「そんなことはない。あなたが闇を作り出してくれなければ、私は闇の精霊を呼び出すことは出来なかった。本当に、ありがとう」
 ぺこり、と頭を下げるアイシャに小さく頷き、そして魔術士は三人をぐるり、と見渡して言った。
「それでは皆さん、お元気で。またどこかでお会いできるといいですね!」
 え、と呟いたエスタスの前で、魔術士の姿は忽然と消え失せた。まるで夢でも見ていたかのように、彼の立っていた場所には足跡一つ残っていない。
「い、今の……」
「転移魔法ですよ! あんな高度な術を、魔法陣も呪文の詠唱もなしに発動させてしまうなんて、あの人は一体……?」
 首を捻るカイトに、アイシャは平然と言ってのける。
「分からない。分からなくていい。あの人は手を貸してくれた。それだけ」
「……ま、そうだな。詮索したってしょうがないさ」
 それよりも、と、エスタスはカイトの背中を叩く。
「ほら、とっとと戻ってメシにするぞ!」
「は、はいっ」
 慌てて歩き出したカイトだったが、アイシャがついてこないことに気づいて、すぐに足を止めた。
「アイシャ? どうしました」
「早く帰ろうぜ。オレも腹減ったし、アイシャだって昼メシ食ってないだろ?」
 そんな二人の声に、俯いて何か考え事をしていたアイシャはすっと顔を上げる。そして――
「イオ=アイシャ=ラキス」
 突然の言葉にきょとんとする二人に、少女は照れたように付け加える。
「私の、本当の名前」
「え……それって……」
 呆然とする二人に、アイシャは訥々と語った。彼女の先祖は力のある精霊使いだったこと。そんな彼の教えに従い、彼女の一族は代々、他者の名前を軽々しく口にすること、また家族と契約精霊以外に本名を明かすことを禁じてきたということを――。
「そんな大事な名前を、僕らに教えちゃっていいんですか?」
 慌てるカイトに、アイシャはこくんと頷いた。
「一族は滅びた。家族も、もういない。二人は仲間だから、知っていて欲しい。そう思った」
 そうして、アイシャは二人の顔を交互に見つめ、ぎゅっと拳を握り締める。
「名を交わすことは、信頼の証。だから」
 少しだけ照れたような少女の顔に、二人はそっと顔を見合わせて、力強く頷いた。
「僕はカイト。カイト=オールスです」
「オレはエスタス。エスタス・リューク=ランシール」
 よろしく、と笑う二人に、大きく頷きを返す。その顔が笑っているように見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。
「帰ろう」
 いつもの表情で、アイシャは立ち木の向こう、村の方角を指し示す。
 そこは、根無し草の彼らを温かく受け入れてくれる、辺境の小さな村。故郷を遠く離れた彼らにとって、第二の故郷とも呼べる場所。
 半年の後、その寂れた村にやってきた一人の神官と謎の卵を巡って大騒動が巻き起こることなど、今の彼らが知る由もなく。
 暖かい食事と見果てぬ夢を求めて、彼らはただひたすらに森を走る。
「さあ、とっとと帰って洗濯物取り込むぞ」
「わわ、待ってくださいってばー!!」
「おなか、すいた」
 賑やかに去っていく彼らに手を振るように、木々が枝を鳴らす。吹き抜ける木枯らしが、本格的な冬の到来を告げていた。
 春は、まだ遠い――。

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